宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ハロウィーン

 今日で10月も終わり。渋谷のハロウィーンは大騒ぎのようです。

 ハロウィーンというと、1992年10月17日にアメリカで起きた日本人留学生射殺事件を思い出します。元々ハロウィーンは古代ケルト文化の祭りです。秋の収穫を祝い、悪霊を追い出す宗教的行事でしたが、キリスト教の祭りではなく、キリスト教教会は容認から否定までさまざまのようです。現代では特にアメリカ合衆国で民間行事として定着していて、子どもたちが仮装して「トリック・オア・トリート」(お菓子をくれないとイタズラするよ)と言いながら、玄関にライトをつけている家々を回る風習が有名です。

 日本人留学生射殺事件は、当時高校2年生だった服部剛丈さんが、ルイジアナ州バトンルージュ市でホームステイ中に遭遇した不幸な事件でした。服部さんはホームステイ先の同年代の高校生の男子と共にハロウィーンパーティに出かけ、訪問先の家を間違えて、ロドニー・ピアーズ一家の住む家に辿り着いてしまい撃たれる、という事件が起こりました。

 当時日本の報道では、ピアーズ氏の「フリーズ(Freeze  動くな)」という警告に対して、「パーティーに来たんです」と服部さんがピアーズ氏の方へ近づいてしまったことの文化差が問題とされていた、と記憶しています。

 日本の刑法での傷害致死罪にあたる「計画性のない殺人罪」で起訴された刑事裁判では、12人の陪審員全員が無罪の評決をしています。ルイジアナ州の法律では、屋内への侵入者への発砲は容認されていますが、撃たれたとき、服部さんは敷地に入り込んではいましたが、屋内に入ってはいませんでした。それにもかかわらず無罪判決というのは、正当防衛が認められたのか、傷害致死罪の構成要因を満たしていないと陪審員が判断したのかは、明らかにされてはいません。

 その後、遺族が起こした損害賠償を求める民事裁判は、正反対の結果になりました。原告側の弁護士は証拠に基づいて判決を行う判事裁判にすることを狙って、功を奏したようです。服部さんとピアーズ氏の距離も、刑事裁判で専門家が出した90センチから150センチ(これは銃口から被害者までの距離)よりも離れていて、民事裁判で別の専門家は190センチから250センチはあっただろうという鑑定結果を出しました。威嚇射撃かドアを締めて警察を呼ぶことが可能だったことが明らかにされました。

 ピアーズ氏はガンマニアで、鹿狩りが趣味と公言し、近隣や自宅敷地で犬猫への射殺事件を繰り返していたようです。その日はウィスキーを飲んでいて判断力が低下していたことや、事件の前に、妻の前夫とトラブルを起こしていて「次に来たときは殺す」などと言っていたことも明らかにされました。そのほか、銃の使用に関する矛盾する証言も明らかになり、正当防衛ではなく、殺意を持って射殺したとして65万3000ドルの支払い命令が確定しました。

 賠償金は支払われていないようですが、ピアーズ氏はこの事件で解雇され、賠償金を支払わないまま自己破産したようです。

 銃を向けられた時の振る舞い方についての日本人一般のイノセントぶりが、よく文化差として取り上げられます。それはその通りだと思います。アメリカの刑事ドラマを見ていて思うのは、刑事が見知らぬ刑事から銃を向けられたとき、「まあ、待てよ」ではなくまず完全に両手を挙げるという所作の徹底です。

 ただ、今、私が感じる文化差問題とは、「にもかかわらず」が文化なんだなぁということです。銃を持つことで一般市民が抱えるリスクの大きさは、まずアメリカ人自身が感じていると思います。銃規制への動きもあります。「にもかかわらず」なかなか進まない。銃規制の意味するものが、日本の歴史の中の「刀狩」のようなものでもあるからではないでしょうか。権力による統制が強まることへの、直観的な忌避感もあるのかもしれません。

 この文化の中の「にもかかわらず」の部分は、頭で理解しても、感覚的にはなかなか分からない気がします。

h-miya@concerto.plala.or.jp