宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「いること」と「すること」と

 22日はまた、猛烈に暑かったです。一日中、洗濯していた気がします。23日も暑かったのですが、夕方から大分涼しくなりました。24日は朝方までは、風が涼しかったのですが、午後から蒸し暑さを感じました。25日、やたら暑かったです。この暑さいつまで続くのでしょうか。

 さて、私たちは生まれ出てきた時は、自分で何かを「する」ことはできずに全部周りの人たちにしてもらいます。人間は動物なので動きますが、この動きをコントロールできないと、自分の身の回りのこともできないし、社会を作れません。日常生活も何事かを「する」ことで成り立っています。何を「する」か、「何」をすることが望ましいかは、時代や文化、年齢、性別、階級などによって分かれます。しかしいずれもやはり「する」つまり「活動」に焦点が当たっています。

 存在すること、いること(being)だけで「いい」というのは考えてみると、通常、生まれて来て何か月かの間と、本当に死にゆくときだけです。認知症状を発症している人たちの問題の一つもここにあるなあと思います。彼らはただ「いる」だけでなく、やはり何かをしているのであり、その「していること」が問題を起こしてしまうわけです。人間として生きている間は、やはり何かをしているわけで、そのしていることをどうコントロールするかが問題になってきます。自分でコントロールできないときは、周りの援助が必要になります。

 周りの人間が「いる」ことを第一の価値として受け止めて、その「する」ことに寛容になれるかどうか。そういう価値転換ができるかどうか。

 通常ケアは、ケアする側からの発信はあっても、ケアされる側からの発信はあまりありません。ケアされる側が何を感じ、考えているのか、今一つ分かりません。その意味では、クリスティーン・ブライデンさんの講演会や著作は大きな役割を果たしました。

 クリスティーンさんは1995年、46歳で、アルツハイマー症と診断されました。夫との離婚が成立して、やっと生活が落ち着きを取り戻しつつあったときに、この診断に彼女は苦悩しながら向き合っていきます。1997年に一冊目の本『私は誰になってゆくの?』を出版します。そして1999年に、ポール・ブライデンさんと再婚して、2004年に2冊目の本『私は私になってゆく――痴呆とダンスを』を出版します。どちらの本も、本当にアルツハイマー症の人が書いたのか、と疑問を呈されるような出来栄えなのです。この一事からも、アルツハイマー病というのが、一気に何も分からなくなるものではないことが分かります。

 後期認知症のイメージ(誰も分らなくなり、話せなくなった状態)がスティグマ(烙印)を作り出し、認知症と診断された人を孤立させます。しかし認知症は診断から後期認知症に到る旅なのです。その途中には多くの段階があります。クリスティーンさんはこのことを知ってもらうための孤独な戦いを始めました。

 パーソン・センタード・ケアを提唱するトム・キットウッド(1937-1998)は、認知症にとらわれずにその人を理解することから始めよう、と言います。そして、活動的であることは人間を人たらしめるのに大きな役割を担う、最高のケアは常に一種の協力、とも。

 私たちは、活動というとき、目的を重視します。事柄自体、目的達成という立場が「大人」の世界では重要です。しかし、認知症に向き合うとき、人間を人間たらしめるためにこそ活動が意味を持ちます。その人のための活動なのです。「いる」ことこそが本位であって、「する」ことは「いる」ことを補足するツールというように、構え方を変えられるかどうか。

 私たちの生活が、あまりに「する」ことに軸足を置きすぎている、それを得心していけるかどうか。まだまだ、考え、感じなければならないことが沢山あります。

h-miya@concerto.plala.or.jp