宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

オリンピックと内面的促し

 オリンピックのスピードスケート、女子団体パシュートで金メダルを取ったニュースで、昨日は沸いていました。美と力が合致する隊列の美しさには見惚れました。あの一瞬(3分弱)を作り出すために、どれだけの練習がなされてきたかを思うと、何とも言えない思いになります。スポーツに限らず、何かを極めたいと思ったとき、人がそれにかける思いと時間の膨大さ。必ずしも望んだ結果を伴うわけではなく、それでも人は挑戦します。ぼろぼろになって、挫折してしまう人も多い。それでもなぜ人は挑戦し続けるのか。

 理由なしの突き動かされる何か、としか言いようがない気がします。後になって、好きだったからとか、○○さんに感動してとか、いろいろ理由をつけることがあっても、同じ体験をしていても、すべての人にそれが起こるわけではありません。「すごいね」と同じ言葉を語っていても、その経験の質は異なっています。これが、森有正が言っていた「内面的促し」でしょう。森は、私たちは誰でも自分の中に、ある一つの内面的促しを持っていると言います。どんな小さな子どもでも、理由なしに、自分はこういうことをしたいという促しを持っている、と。

 「この理由がないということが、肝心なのです。‥‥自分の内側に理由をつけることのできない、ある促しを持っています」(『いかに生きるか』31頁)

 そしてこの内面的促しを育てて、それを実現しようとして人は探検家になったり、学者になったり、金持ちになったり、偉い役人になったりする、と言います。実現しようとすれば、他人との交渉関係に入っていきますが、当然そこでもろもろの葛藤とぶつかります。本当の障害は人間との関係の中で出てきます。最後は自分との闘いとは言いますが、まあ、出発は他人との関係の中にあるでしょうね。

 「相手と話し合いをつけるとか、あるいは相手に自分を理解させるとか、あるいは自分が相手を理解して、その障害が実際は障害ではないということを納得したり、そのような経験をくり返していく間に、私たちの生活の中に、一つの反応が生まれて‥‥核が出来上がり、それが人格にまで成長していくのです」(同書、33頁)

 森有正は、人格は理由のない内面的促しから出発し、これこそが私たちが自由といっているものの本当の根拠だと言います。カントが、自由意志とはいきなりの始まり、と言っていることと符合します。だからこそ、この自分の内面的促しを、私たちは非常に大切にしなければいけない。

 右往左往してしまうのが、私たちの日常生活だと思います。オリンピックは、選手たちの闘いを通して、そこに繰り広げられる人間ドラマを見ている気がします。そして彼らの闘い方が、自分が忘れている一筋に求めることの意義、自分の中の内面的促しの部分に触れて、感動するのかもしれません。

h-miya@concerto.plala.or.jp