宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

他者理解と言葉、距離

 冬季オリンピックでは、スピードスケート女子も活躍しています。カーリングも頑張ってるし。そう言えば、フリースタイルスキーエアリアルのスイス代表団選手の一人ミーシャ・ガッサーさんの父親と現在の奥さんが、一年前に自転車でスイスを出発してピョンチャン入りした話が話題になっているようです。息子のミーシャさんは、「父は若い頃スカイダイビングをやっていて、何かに挑戦したかったのだと思うけど、理解できない(クレイジー)」と言ったそうです。もちろん来てくれて嬉しいという言葉も添えて。それを父親にインタビュアーが伝えたら、「空中15mもの高さで3回転4回捻りをして着地する方が、理解できない(クレイジー)」と言ったとか。だからこそ来るだけの意味があるとも。でも思わず聞いていて、笑ってしまいました。日本人だったら、絶対公式には言わない言葉(理解できない)だなあと。身内では、信じられないとか、馬鹿じゃないの、と言いあっても、感想を聞かれても「ちょっと無茶なことをやるところがあります」くらいで収めるかな。まさにホンネとタテマエ。そもそも親の側が、何かあったとき子どもの迷惑になるとまずいと思って、自主規制してやらないでしょうね。

 ところで、対人援助を専門とする人は、理解にあたって、受容という「態度」が基本にあります。あるがままに相手を受け入れる態度のことですが、このポイントは二つあると言われます。一つは、相手の訴えを、最初から専門的言葉や枠組みで整理してしまわない。もう一つは、相手に対する価値判断を停止する、ということです。これは自分の価値観を捨てることではありません。

 それともう一つ、相手との距離のとり方があるかなと思っています。人間同士ですから、言葉でやり取りをします。コミュニケーションにおいては、非言語的なもの(態度や表情など)や準言語的なもの(語調など)から伝わる情報の方が大きいと言われますから、それらを相手から発せられる情報と括っておきます。この情報に振り回されない距離のとり方、といったらいいでしょうか。

 何かを語ることは逆に語られないものを闇に隠します。語っていることには、その人の意識が向かっているものが表われ出ています。私たちはどうしてもその人が語ったことや行動に振り回されますが、その隠れたあるいは隠された意図は別かもしれません。言葉や行動そのものに囚われると、そういう言葉や行動が生じてくるその人の生活の状況や生存の状況が見えなくなる気がします。

 クレイジーという言葉も言い方や表情によって、馬鹿にしていたり、怒っていたりということもあります。ガッサーさんとお父さんのグィード・ハフィラーさんのやり取りからは、忌憚のない関係性が伝わってきます。慇懃無礼ということばがあるように、丁寧な言い方をすればそれで相手に丁寧さや上品さが伝わるわけではなく、わざとらしさや失礼になることもあります。

 じゃあ、どうすれば理解できるのか。山本周五郎は自分の孫も抱かなかったそうです。観察していたようですが、こういう、作家のある意味冷徹なまなざしが必要なのでしょうか。とりあえず日常的関係では、好悪を強く感じる対象とは距離をとるということが、解決策なのかもしれません。

h-miya@concerto.plala.or.jp