宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

自由をめぐって1):人間は自由か?

 M・J・スミスさんが、10の文章で表現したアサーション権宣言というものがあります。その最初は、「誰も、自分の行動・思考・感情は自分で決めることができて、しかも自分が起こしているものである。だから、その結果が自分に及ぼす影響について責任を取ってよい」というものです。開放感と同時に、あまりに無責任になってしまうのでは、と思う人もいるようです。アサーションの考え方は、人間の自律を基本とするものです。ところで人間は自主・自律を基本にできる自由な存在なのでしょうか。自由に関して私たち日本人(?)は、どうも「勝手気まま」と受け取るきらいがあります。西洋思想の中での自由は、理性や意志の問題と関わっています。

 まず、自由の経験的証拠に関しては、それがすべて、心理的証拠へと還元されることから、次のようなニーチェの批判も可能になります。

「人間が後悔や良心の呵責を感じるのは、彼が自由だからではなく、自己を自由だと思っているからである」(F.ニーチェ『人間的』Ⅰ-39)。

 そこで経験的ではなく、意志や理性の存在することから、自由を証拠立てる道があります。意志はそのものとしては善であり、絶対的善へ向かうとき必然的なものとなります。ところで、現実の人間に現れるのは、相対的善であり、それゆえ私たちは、相対的善に対しては自由なのです。

 「我々は対象として完全な善を持つことができず、ただ個別的な善のみを持つのである。これこそが人間が必然的にではなく、自由に選択する理由である」(トマス・アクィナス神学大全』)

 「人間に理性が備わっているという事実そのものから、人間に自由意志が備わっていることは必然的である」(トマス・アキナス神学大全』)

  「(自由は)あらゆる現実の状況に対して、間隔を保つ能力を維持する」(M・メルロー=ポンティー『知覚の現象学』)力に由来する。 

 自由に関する文言で、今、一番気に行っているものが、この「現実と距離を保つ能力としての自由」というものです。

 カントは道徳が存在すると言うことから、自由は要請されざるを得ないと言います。人間が自由かどうかは証明できませんが、人が何かに責任を持ち得るのは、自由だからです。カントは『実践理性批判』の中で、自由と道徳の関係を次のように言います。

 「自由は確かに道徳的法則の存在根拠であるが、しかしまた道徳的法則は自由の認識根拠である、と」(同上、岩波文庫、18頁)

 これも私が、すごいなあ、と思った文言です。道徳法則が意義を持つのは、人間が自由だからです。だから自由は道徳法則の存在根拠なのです。しかしまた、道徳法則が与えられているからこそ、私たちは人間の自由を考えたり(認識したり)するわけです。

 こう見てみると、人間の自由というのは、実証主義の対象になるような事実ではなく「そうとしか考えられない」というもので、だからこそ、「責任を取ってもよい」という表現が出てきます。橋爪大三郎さんは

「思想は、多くの人びとを、いわばその屋根の下に生活させている、持続性のある言説である。思想は、人びとの共同作業で維持されている」(『社会学講義』285頁)と書いています。「人間は自由である」という思想は、まさに近・現代社会において、共同で維持されている約束事なのです。

 最後に、社会的決定論と言われるものを少し考えておきます。社会環境は私たちに作用し、一見、最も個人的決断も、その環境によって決定されるようにも見えます。同じ社会グループに属する諸個人の観念、感情、生活の共通性は、個人生活への集団の影響をよく示しています。文化という概念が意味を持つのもそのためです。この理論は統計データに基づいています。自殺、犯罪、結婚、離婚や他の行為など、通常は自由な行為と考えられているものの数は、例外的な状況がない限り(戦争というような)、年々ほとんど変わりません。ライフ・コースはコーホート(同時出生集団)分析を元に組み立てられています。同じコーホートに属する人々には、結婚年齢や出産年齢に同一性が見られます。そこからこのような分析が出てきます。

 このように、個人への環境の作用には議論の余地がないし、ある種の社会的決定論を認めることができます。しかし絶対のものではありません。体制不服従者は必ずいますし、彼らの中から社会変革者が出てきます。そこまで行かなくても、日常的に環境への疑問から、自分が環境の影響を受けていることを自覚できますし、そのことから時に、自分の信念に従って自分の行動を変えることができます。また、私たちは環境を選ぶこともできますし、その環境の中で最も自分に適合した特別のグループを選ぶことができます。統計は大多数にとってのみ有効であって、誰が自殺するか、離婚するかを予見できるわけではありません。

 では、日本人にとって、自由とは「気ままさ」のことなのでしょうか。次は、少しこの問題を考えてみます。

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