宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

共感と受容

 あと1週間で2017年が終わります。12月に入ってからは、本当にあっという間でした。年内の授業は、19日で終わりましたが、テレビの受像の乱れの対応などしていて、気が付いたら、24日です。

 23日には佐川文庫木城館で、ヴァイオリンとピアノの素敵なコンサートを聴きました。鈴木舞(ヴァイオリン)さんと加藤大樹(ピアノ)さんは、若々しくエネルギッシュで、のびやかに音楽を奏でていました。観客席からは「可愛いわね、素敵ね」の声が漏れ聞こえてきました。舞さんが弾いているヴァイオリンは、1683年製のニコロ・アマティ。中低音ではふくらみのある音、高音は澄んだ音、絹のつややかさ、ビロードのような厚みと滑らかさを感じさせるような音質でした。

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     ステージに活けられていた花。松がお正月が近いことを思わせます。

  

 遡って、21日、『男はつらいよ 望郷編』を観ていて、フーテンの寅さんが、蒸気機関車の釜焚きをしている青年の話を、とてもいい表情をして聴いていました。その表情に吸い寄せられましたが、まさに共感と受容の態度だったと思います。

 昔世話になったテキヤの大親分が死にかけているというので、さくらの説教を(便宜的に)神妙に聞いて、札幌までの汽車賃を融通してもらいます。その大親分が、ほったらかしにして来た息子に一目会って詫びたいというので、その息子を訪ねます。しかし息子は父親に会うことを拒否します。釜焚きの青年がその息子です。彼は、かつて小学1年生のとき、父親に会いたくて札幌までひとりで汽車に乗って行きました。父親は大勢の女性たちを搾取していました。その中の若い女性が泣いて謝るのを、何度も殴っている場面を見てしまいます。

 「その男が鬼のように見えました」(青年)、「うん、それでどうしたい?」(寅次郎)、「そのまま帰ってきましたよ」(青年)、「一人で汽車に乗ってかい?」(寅次郎)、「いえ、汽車賃もなかったので、線路を歩いて」(青年)

 このやり取りのあと、あれほど、青年を大親分のもとに連れて行こうとしていた寅さんが、青年が釜焚きの仕事に戻っていくのを静かに見送っている表情の何とも言えない柔らかさ。

 私たちは誰かを説得しようとするとき、どうしても自分の立場に固執します。そして「それはわかるけど、でもね」と続けがちです。相手の話をそのまま受け止めて、相手のその時の思いに一緒に浸ることの難しさ。寅さんはそれをスッとやって見せます。あいつは馬鹿だ、どうしようもないと、寅さんを心配する叔父さんや幼馴染のタコ社長は言います。それも事実ですが、常識で縛られない分、根っこの優しさが人の痛みに即感応します。その瞬間の心の動きは、真正なものです。寅さんがずっこけてるのは、その真正さを自分の生き方や生活に結び付けるやり方です。そこの部分が周りから「馬鹿だねぇ」と言われてしまう。さくらが「お兄ちゃん、かわいそう」と涙する部分でもあります。

 相手の状況や思いに共感し、受容することの難しさは、それを自分のものの見方や考え方、感じ方に再編していくことの難しさでもあります。援助の場合は、受け取ったものをあくまでも相手のものとして、相手の在り方に帰していくことができます。しかし、自分の生活の一環として誰かに共感し、相手を受容するとき、それは自分自身の生き方自体の再統合が要請されます。寅さんはそれを拒否しています。成熟すること、賢くなることを拒否しています。

h-miya@concerto.plala.or.jp