宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

人間関係のシャドウ・ワーク

 東海村の元村議、田中順子さんが逝去されました。2年前に知り合いましたが、とても知的で芯の通った方でした。その頃もすでに体調はあまりよくありませんでしたが、ご一緒する機会が何度かあり、静かな話しぶりと暖かなお人柄、そしてその知性に敬意を感じていました。

 ある人が、彼女が政治的人間関係の中で果たしていた大きな役割、バランスをとりながら動いていた姿勢を高く評価していました。彼女自身はかつて村議として自らも表舞台で活躍した方ですが、例えば妻や母として男性の政治家を支える女性の力は、どのくらい評価されているのでしょうか。私は、政治家の妻や母は、内助者ではなく共闘者なのではないかと思っています。

 女性の力をどう評価するか。人間関係のバランス項の役割を果たすのは、女性には限りません。しかし女性は、人間関係に敏感なセンサーを持つ人が多い気がします。これは元々なのか、それとも訓練の賜物なのか。コールバーグの道徳認識の発達段階の調査によると、日本人男性は「よい子志向」の段階で止まっている人たちが多い、とも言われます。性差以上に文化差があるわけですが、とすると、性格や元々の特性というより「育ち」の問題が大きい気がしてきます。

 人間関係のバランスを保つ力は、いろいろな場面で発揮されていますが、それ自体は何かの成果に結実するわけではなく、成果に影響を与える要因です。成果を生みだす土壌を形成・維持する力と言えます。この部分をどう評価するかは、難しい。なぜなら、この様な力は分析的に捉えようとしても捉えがたく、全体的に評価する眼差しや感性によって捉えられると言えるからです。こういうものには点数のつけようがありませんから、「素晴らしい」とか「大きな貢献」と表現するより仕方がない。

 河合隼雄さんがかつて日経新聞(1997年9月21日「和魂も洋魂もあきまへん」)でインタビューに答えていた内容を思い出します。「日本人は全体の状況で考える、ということを凄く訓練してきたが、西洋近代の論争には強いが全人間的状況からどこか外れているやり方を使いだして、おかしくなった」というようなことを語っていました。

 何かを評価するとき、部分点を積み重ねて総合点を出すというやり方を良くしますが、でも何か全体像をつかみ損ねていると感じることがあります。逆に全体で評価したとき、その評価を論理的に説明することは可能ですが、どうもその説明は後付けのような感があります。分析が個々人の主観においてなされるとすると、全体で捉えるやり方は我彼の「間」でなされているといえる気がしています。主観において判断する分析的判断はそれゆえ、共通のルールの設定が何よりも大切です。「間」で判断する全体的判断の成否は、人間的成熟に委ねられざるを得ないのではないでしょうか。そしてこういう判断を要求されるものは、どうも現代の表舞台には乗り難い。個々人の主観による判断を前提に組み立てられている社会では、論理的・数量化可能なものでないと、伝わらないからでしょう。結果として、人間的成熟を要求されるような人間関係のバランスをとる力は、シャドウ・ワークになってしまう。残念なことです。

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