宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

見間違いの訂正1)――超越論的主観性

 神奈川生まれで、ひたちなか市で定年を迎えられたある利用者さんが、別の利用者さんを見かけて幼馴染だ、と言っていました。思い違いかもしれませんが、見間違いの訂正は通常はどういう構造を持っているのでしょうか。

 デカルトは方法的懐疑において、感覚を疑いました。なぜなら私たちは普通に見間違いや聞き間違いをします。でも通常は見間違いだったと気付くのも感覚を通してです。ということは、私たちは感覚を通して外界を確証していると言えるでしょう。私たちに確実に捉えられるものは、意識に現れるものです。そして見間違いや聞き間違いも確かに意識に現れている何かですが、それが訂正されるのはどういうことでしょうか。少しずつ考えてみたいと思います。

 フッサールは、デカルト同様、私たちは自分の意識の<表象>の外には出られないというところから始めます。この表象には実在するものが対応している場合と、していない場合があります。例えば白鳥の表象には実際の白鳥が対応しますが、<火の鳥>の表象には実際に存在する対象がありません。この違いはどうやって確認しているのか。結局は、実際に見て確認する以外にありません。でも、それはやはり見ているという<表象している>状態の中でのことです。これが私たちは、表象の外に出られないままに、その対象の実在を確証していると言われていることです。にもかかわらず、私たちは、自分が表象の中から出られないことを忘れて、対象が実在していると思いこみます。これが「自然的態度」と言われているもので、この思いこみの判断に停止をかけるのがエポケーです。

 私たちはどうやって、意識の中で外部を確証するのか、そのことを意識の内部で確認する作業が「超越論的還元」と呼ばれます。還元はReductionの訳ですが、引き戻すこと、意識の中に戻ることであり、なぜ超越論的かと言えば、意識の外に何かがあるということは、存在は表象を超越しているからであり、それを学問的に扱うので、「超越論的」と言われます。私たちの表象は主観が構成したものであり、これが「超越論的主観性」と言われます。つまり外部の存在は、意識の中から出られない私たちが、表象の中で構成したものです。ただしこの構成は、恣意性を意味しません。存在は私たちの意識の構成と切り離せません。これこそが、私たちが具体的に経験している直接経験なのです。この直接経験の領野を土台にして、客観科学が成立しています。

 すなわち、通常私たちが使っている主観的・客観的の底にある構成、あるいはその経験が「超越論的主観性」と言われます。 

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