宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

『不思議なクニの憲法』2回目視聴

 今日、『不思議なクニの憲法』の2回目の視聴をしました。1回目とは違った部分に関心が行きました。そして、以前から憲法改正のための自民党草案の訳の分からなさが、のどにつっかえた骨のようになっていましたが、少しその基本精神が理解できたような気がしました。

 まず、弁護士の太田啓子さんが、「憲法改正に賛成か反対か」という問いは意味がないと言っている部分に注目しました。太田さんは「憲法カフェ」や「怒れる女子会」の発案者です。彼女にとっては、憲法は「いかに人間が幸せに生きるか、というのを真剣に考えてある希望の書」だそうです。その希望を繋ぐ活動だから楽しくやりたい、と言っていました。そして、どの条文を、どう変えることに賛成か反対かという具体的議論が必要であること。希望しないような改正も起こるかもしれないが、そうしたら、望むような政権を作って、新しい条文の憲法改正もできる。自分たちが主権者なのだからというように常に希望をもって、あきらめないと言っていました。憲法を改正したい人たちがあきらめない以上に、自分もあきらめないと。

 弁護士の伊藤真さんは、「一人ひとりが、人間として、個人として尊重される社会を理想として」努力していくべきだし、努力しているのだと思うと語っていました。日本における憲法教育は、ほとんどなされていないと言っていいと思います。現憲法の基本理念は、どうも日本人の常識になっているとは言い難い状況です。その証拠に、自民党草案や日本会議の動向にも、世論がそれほど拒否反応を示しているとは思えません。彼らの方向性とは「一人ひとりが、人間として、個人として尊重される社会」を理想にしていないのですが、世論はそれにある種鈍感だし、逆に賛成を表明する人たちもいます。女性たちの中にも。

 単に9条改正が目的なのではなく、現憲法の掲げる基本的人権に違和感がある人たちが書いたのが自民党草案なのだと考えると、よく分かります。「公共の福祉」が、「公益及び公けの秩序」に書き換えられているのも納得します。「公共の福祉」が何なのかは市民社会のコンセンサス形成と関わりますが、「公益及び公けの秩序」は上から目線です。それらは与えられるものになっています。「一人ひとりが、個人として尊重される社会」が嫌な人たちがいて、そういう社会は不安定な不安な社会だよというプロパガンダに共感してしまう人たちが結構いる。

 改正のための自民党草案の方向性とは、歴史を逆戻りさせたいのでしょう。天皇を頂点とする共同体主義を理想として。この共同体は、自生的な共同体ではなく、明治期に作り出された天皇制家族国家観を理想とするものでしょう。これはそれぞれの家が家父長制によって一元管理され、さらに天皇日本民族の家長の地位に立つという家族国家観です。当然、天皇は男性でなければなりません。女性天皇への抵抗の根強さも、この天皇制家族国家観から考えるとよく分かります。自民党草案や日本会議の動向に賛成を表明する一般の人たちが、どの程度、この辺りのことを分かっているのか。

 「一人ひとりが、個人として尊重される社会」とは孤立した社会ではありません。ただし慣れ合いの社会でもなく、一人ひとりが「連帯」へと努力しなければ、社会的紐帯は形成されません。第12条の精神と通じます。人と共に生きていくというのは、どんな共同体でも、面倒で我慢せざるを得ない部分があると思います。問題は、自分の意思でその在り様を選び続けられる共同体かどうかではないでしょうか。

h-miya@concerto.plala.or.jp