宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

型が育てるもの

 中山要『御徒の女』を読みました。御徒というのは、徒侍、徒歩で行列の先導を務めたような下級武士のことです。御徒の女とは、この徒歩組の娘や徒歩組に嫁いだ女たちのことです。時代は、幕末、お徒歩組に生まれた長沼栄津の娘時代から始まります。嫁いで母になり、御一新の中で息子と一緒に武家を捨てて生き抜いてゆく、女の一代記でした。おかめ顔に生まれ、身体の弱い母親を支え、見栄っ張りで自分勝手な兄と兄嫁に振り回されながら、マザコンと噂されていた男に嫁ぎ云々。一気に読んでしまいました。「ぶれない武家の女の一代期」のような帯が付いていましたが、ちょっとイメージが違います。「ぶれない武家の女」という言葉から、私が思い浮かべるのは山本周五郎の描く女性たちです。

 『御徒の女』は、栄津の心を描き込んでいるので、結構ぶれぶれじゃないかなあ、と思いました。生き方は武家の娘の道を外れず、ぶれていませんが、心の中は結構ああでもないこうでもないと思い悩み、嫉妬し、疑って、と現代的だなあと感じました。山本周五郎の世界は、型の世界だと思います。行動も心象もある型を持っていると思います。小津安二郎の世界と近い気がします。昇華された型で世界を描き出している、と。

 江戸時代は文化優位の時代、文化が個人の生活を規定しているといった人がいます。これは型が決まっていた、ということだろうと思います。「型」というのは、今の時代あまり評価されないようですが、「型」があることで、逆に心が自由に羽ばたくという側面もあると思います。そして、心だけでなく行動においても「型」を破るときには、リスクを伴うかなりの勇気を必要としたでしょう。その結果、時間をかけ江戸期に個性的な人が育ってゆく土壌が耕されたのかもしれません。

 型との付き合い方、型の意味、そして常識とは。これらを考えていると、コモン・センスそして共通感覚の問題へとつながってゆきます。

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