宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

山百合の会と新型コロナ感染拡大の今

 6月のお花の会(18日)で生けた花です。7月は主催者がワクチン接種直後のため休会になりました。8月は緊急事態宣言対象県になったため、会場が使えなくなり休会。夏なのでお花を買って来てまで生ける気にならず、玄関には枝遊びで作った「アソボ」の作品が掛けられたままです。

 子どもたちの間にもデルタ株が急速な感染を引き起こしています。9月からの授業開始は、オンライン授業になりました。この展開に準備は間に合っているのか。医療体制だけでなく学校の現場も対応が出来ていない状態のようです。

 2020年3月の全国一斉休校要請の時、今のような事態が予想されていたかどうか。その後の第1派、第2波というように、繰り返される感染拡大とそれへの対応のイタチごっこのとき、オンライン対応に教育現場ももっと真剣になる必要があったと、今は思います。タブレットが児童一人ひとりに渡されたからと言って、即対応できるかと言えば、難しいです。教師側のオンライン授業への訓練も出来ていないし、子どもたちへの使い方の指導も出来ていない状況だと推測できます。

 たとえば、山百合の会をオンライン開催できるかと考えてみると、無理があると思いました。一番の問題は、作品の手直しを先生にしてもらえないところです。作品自体を見てもらって手を入れてもらうのは、映像を介しては無理です。実技の授業は基本、オンラインでは無理があります。

 それでもオンラインの活用は進めていく必要があります。オンラインで出来ることを手探りしながら積み重ねていかないと、感染症の時代に、私たちはますます蛸壺化されてしまいます。

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    6月18日:クルクマ(ピンクの花)、縞ガマ、ベッチーズブルー(瑠璃玉アザミ)、ソリダコ

相対性の絶対化

 「~は人それぞれだから」は結構よく聞く言葉です。何気に自分でも使っています。話を切り上げるときや、共感は出来ないけどそういうこともあるかな、という時などに。

 しかし、仕事でこれはありかなと、疑問に思いました。最近体験したことです。ある研修会で「療育は人それぞれのやり方がある」というような言葉が発せられました。それぞれの子どもに効く療育法には違いがあるかもしれません。しかし、療育者側のやり方を「人それぞれ」と表現することはどうなのかと思いました。

 たとえば、心理療法でも精神分析療法と行動療法では考え方も対処法も異なり、それが効果を発する症状も異なっています。また、日本の森田療法は不安を受け入れ、不安と共存するやり方を取ることで不安障害やパニック障害に効果があると言われています。内観療法は一週間閉じ籠って内観します。これはデカルト的な感じがします。禅やマインドフルネスの系譜にもつながる気がします。このように心理療法は一つではありませんが、個人的な「人それぞれ」の療法ではありません。

 特に仕事においては、方針の違いを詰める必要があります。「Aという子のこういう状態にここではどう対応していくか」という具体的事例においては、療育者の力量もありますが、理に適った対応法はほぼ一つに集約します。

 共同作業では、折り合うところを明確にしないと、上手くいきません。「人それぞれ」は趣味であったり、個人的作業においては問題ないです。ただしそれは交わらないということを意味します。力を合わせなければならない場面において「人それぞれ」ということは、相対性の絶対化になります。相対主義も絶対主義も、どちらも閉じたサークルを作ります。相対主義は一見すべてを認めているようですが、それは対話の終焉を意味します。絶対主義が対話を拒否するのと何ら変わりません。

 複数性はまさに相対主義の原点ですが、連帯のためには共有できる点をその都度明確にする必要があります。連帯に当たって、それぞれの生き様に関わる基本方針の相対性を語ることに、どういう意味があるのか。

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              8月18日の平磯海岸

人間の尊厳と自立6.目的の王国における人間

 連日暑いです。本当に「残暑厳しき折から」という表現がぴったり来ます。21日に放課後等デイサービスの子どもたちを浜辺に連れて行って、遊びました。カニや波しぶきに子どもたちは楽しそうに遊んでいます。こういう光景には「自発性」が見られます。自立の根底にあるのは、このような自発性としての自由なのだと思います。

 人間の尊厳に関しては、カントの統制的理念(2021年6月14日のブログ「カントの統制的理念」参照)として捉えておきたいと思います。カントの人間性の概念は、人間は価値を持つのではなく尊厳を持つ、というものです。価値は値段が付けられますが、尊厳は何ものとも比較のしようがないものです。それはどこから生じるのかと言えば、道徳法則を自らに課す人間の自由意志、自律性にあると言います。人間は目的そのものなのであり、自らに目的を設定する存在です。それは道徳法則の神聖(不可侵)から来ています。道徳法則の神聖は勝手気ままに仮構されたものではなく、実践理性の本性によって課せられた理念です。ただしこの理性能力の実現は「人類史の目標」であって、現実の個々人は、人間の尊厳を分有している、あるいは、担っている存在と言えます。

 カントは歴史哲学の中で、人間の発展を5段階に分けていると言われます。1)本能の段階:人間そのものが一つの自然。2)自由の萌芽の段階面において理性的であり、多面において利己的。それゆえ闘争の状態が見られるが、この状態は長続きしない。3)市民社会の段階:法の秩序の下に市民社会が出現。国家が典型。啓蒙と批判の時代。4)世界主義的共和国の段階:国際連盟に見られるような永久平和への兆し。人間関係と国際関係はすべて法の下におかれる。5)道徳的世界共和国の段階:人類は真に道徳的に統一され、人間はすべて目的そのものである目的の王国の段階。目的の王国は一つの理念(Michel Despland,Kant on History and Religion,1973.をもとに澁谷久さんが「カントにおける目的論と歴史哲学」で論述したものを参考にしました)。

 この考え方によると、私たちは第4段階を生きていることになります。法の下に置かれるだけでは不十分なことは、納得します。それは最終的には、道徳の下に統一されなければならない、ただしこれは人類史の目的であって、実現するかどうかは遠い彼方にある、と言われます。

 私たちは道徳に対してどこか斜に構えているところがあります。それは私たちの文化の基底にある「同調性」と関わっているのかもしれません。「安心の文化から信頼の文化へ」という視点が社会心理学で出されています。安心の文化を支えているのは同調性でしょう。この同調性は揺らぎながらも私たちの心性を捉え続けていると思います。私たちの自発性は、どこか自律としての自由というより、勝手気ままで終わっている。だからでしょうか、高齢者の自立(自律)が人間の尊厳と結びつかない。私たちの自由も自立も、感性的存在としての人間のそれに矮小化されているという気がしています。 f:id:miyauchi135:20210827163511j:plain 

               沖を行く船      

「しかたなかったと言うてはいかんのです」

 13日に、NHKで放映されたドラマです。見るつもりはなかったのですが、ブレイディみかこさんが予告していたドキュメンタリー番組「銃後の女性たち」を予約撮りしようとしていたら、始まりました。引き込まれて観てしまいました。

 原作は熊野以素『九州大学生体解剖事件70年目の真実』(岩波書店)です。ドラマは史実をもとにしたフィクション形式になっています。作者の伯父さん鳥巣太郎さんが、ドラマの主人公鳥居太一(妻夫木聡)に当たるようです(本を読んでいないので)。どうもこの手の人体実験的なものは、気合を入れて見ようと思わないと見る気になれません。しかし、このドラマは、終戦後のGHQによる裁判と戦犯になった主人公が自らの罪は何かを問い続けるもので、「仕方ない」とも言える状況の中の罪を、一緒に考えながら見てしまいました。

 太一は、教授に命令され仕方なく手伝わされたアメリカ軍捕虜の人体実験の首謀者として裁かれ、巣鴨プリズンに死刑囚として収監されました。そしてそこで元陸軍中将で死刑囚の岡島孝輔(中原丈雄)と出会います。岡島に太一は「なぜ御自分が命令したわけでもない部下の罪まで被るのですか」と問います。岡島はそれに対して、「何もしなかった罪というものもあるんじゃないだろうか」と答えます。太一はこの「何もしなかった罪」という言葉を考え続けます。妻の房子は、首謀者にされた太一に真実の裁判を受けさせたいと奔走します。しかし、太一は、たとえ殺されることがあっても止めなければならなかったという気持ちに到達します。そして、嘆願書を書いて欲しいという房子の言葉に「できん」と応答しました。その彼の気持ちを変えさせたものは、岡島孝輔が死刑執行されるときの別れの言葉「来なさんなよ」と、巣鴨プリズンに面会に来た娘の「お父さん、行かんで」という叫びでした。

 生き続けることを選んだ太一の「しかたなかったと言うてはいかんのです」という、その後の終生を貫いた言葉は、重く響いてきました。見ごたえのあるドラマでした。

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              柴沼清作「真理の目」

まん延防止等重点措置、何度目?

 オリンピック閉幕しました。スポーツは素晴らしいなぁと思いました。しかし、その間のコロナ感染拡大のスピードに唖然としていました。人が動くとこうなるんだなぁ。

 日本の感染者数は、欧米他に比べてもそれほどではないのに、病院が危機的状況に陥っているというは、コロナ感染者の受け入れ体制が整備されていないせいですが、組まれた予算がかなり未消化で残っているとか。病院の自治に任せていて体制整備が進まないと、ワイドショーで解説されていました。平時には合っている体制が、緊急時には機能しない。なるほどと思いながら見てました。

 今日のお天気は何とも急変連続。晴れ間が見えていたと思ったら、いきなり土砂降り。で、また晴れ間が見えていました。そして突然、またザーと降ってきたかと思うと、すぐ晴れ間が見えて、の繰り返し。台風10号は太平洋上を東に進路を変えて仙台沖の辺りを進んでいます。台風9号は温帯て気圧に変わりましたが、勢力は増しているとか。

 まん延防止等重点措置が8月8日から31日まで、県のほとんどの市町村で適用されました。例外6市町村は、県独自の緊急事態宣言(8月6日から31日までに延長)の対象になります。旅行や外食など、何気なく楽しんでいたことが自粛の対象になり、街も特に夜は活気を失ったままです。コロナ自粛1年目は、今までが忙しすぎたなぁという反省や生活状態を見直す機会でした。しかし、2年目にもなると、夏の花火が見たいなど、一種飢餓感を感じるようになりました。自分がそれほど花火好きとは思っていなかったので、ちょっと驚きです。

 今日は長崎に原爆が投下された日。あの3年9カ月以上、支那事変まで含めると8年に及ぶ戦時体制の大変さを、戦慄をもって感じます。

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            6日、阿字ヶ浦海岸から見た常陸那珂港

茨城県警察本部見学

 30日、茨城県警本部を、子どもたちと一緒に見学してきました。最初に、県警の仕事に関するビデオを視聴してから、自転車の乗り方体験や管制センターを窓越しに見学しました。110番通報を窓の外から手順通りにやってみて、それがどのように受理されるかも体験。その後、信号機の前で、話を聞きました。大人にとってもちょっと興味深い内容でした。現在放映されている「ハコヅメ~たたかう!交番女子」が地域部に所属していること等を思い出しながら、見学しました。

 因みに交番は日本で生まれた制度だとか。明治7年に、「交番所」として始まりました。最初は、東京警視庁から街中に警官が出向いて、交代で立ち番をするところだったそうです。その後、建物が建てられ、そこに警官が出向いて仕事をするようになりました。名称も「派出所」、「駐在所」(一人の警察官が家族とともに駐在)に変えられ、全国統一されましたが、平成6年に正式名称が「派出所」から、一般的に定着していた「交番」に変えられました。

TOKYO2020

 23日金曜日からオリンピックが始まりました。コロナ感染拡大下でのオリンピック開催には、賛否両論あります。翌日の午前中に、開会式のビデオ映像が放映されていたのを、偶々見ました。ちょうど聖火リレー王貞治さん、長嶋茂雄さん、松井秀喜さんが登場したシーンでした。医療従事者へ聖火を繋いだときに、長嶋さんが笑顔になったシーンには、思わずこみ上げるものがありました。長嶋さんのオリンピックへの強い思いが表れていました。

 長嶋さんは2004年アテネ五輪の野球日本代表の監督でしたが、直前に脳梗塞で倒れました。一時は命も危ぶまれ、寝たきりになるかもしれないとまで言われた長嶋さん。彼の現場復帰のための凄まじいリハビリはよく知られています。「なぜそこまでできるのか?」という問いに、「諦めた人生なんて面白くないじゃないですか」と長嶋さんは答えたそうです。それをまざまざと見せてくれた長嶋さんの聖火ランナー姿でした。

 また、聖火台のデザインと点火されるとき5枚のパネルが花が開くように開いた佇まいにも、息をのみました。野村萬斎さんのコンセプト「太陽の下に皆が集い、皆が平等の存在であり、皆がエネルギーを得る」に基づいたデザインだそうです。炎の燃料には、次世代エネルギーとして注目されている水素エネルギーが使われています。水素は福島県の施設で製造されたものです。水素を製造する工程で使われる電力は、太陽光発電で賄われています。水素は燃焼時に無色透明の炎を出します。これに炭酸ナトリウムによる炎色反応によって明るい橙色に着色されています。パネルの製造、内部の駆動部の防水性と耐火性、耐熱性、スムーズな動きを実現するための微調整等々。そして、動作中のパネル同士のすれ違い幅は最も狭い箇所で3㎜以下だとか。ちょっとすごい技術ですよね。

 他にも、MISIAさんの「君が代」独唱の圧倒的声量、ピクトグラム50のパフォーマンス、そして柔道男子60キロ級で金メダルを獲得した高藤直寿さんの、勝利インタビューへの感動など、オリンピックが生むドラマ。オリンピックがそれだけの力を発揮するのは、多くの人を巻き込み、そこに賭けられた想いの強さの結晶だからなのでしょう。    

 技術的には先端はもっと進んでいると思います。ただ、要は使い方、何を表現するか、それが人に感動を与えることが出来るかどうかなのではないでしょうか。コロナ感染拡大下でのオリンピック・パラリンピックです。その意味は、恐らく何年か後、いえ、何十年か後に徐々に明らかになるのでしょう。57年前の東京オリンピックは、いまだに振り返る毎に、思いを新たにしている人がいると思います。かく言う私もその一人です。あの頃は10月開催でした。開会式で学校が早く終わっての帰り道を、なぜかよく覚えています。

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           ドローンによって夜空に浮かんだ地球儀

h-miya@concerto.plala.or.jp