コロナで追い詰められた人たちの状況の酷さが、報道されるようになりました。シリア難民の状況のあまりの過酷さに、言葉が出てきません。超高齢社会を迎えている日本で、自助・共助・公助が言われていますが、これは社会にある程度のリダンダンス(余剰)があって成り立つものと、認識させられました。
私たちはヨルダンで起こっていることに、何ができるのでしょうか。まずは自分の領域で行動するしかありません。そして、同時に、他者の状況に関心を失わないことなのでしょうか。
自分の身体や心理にダメージを受けると、どうしても自分を優先してしまいます。自助は、私たちが生きることの生命活動の基本です。しかし、身の回りへの関心と共助の精神は、心して身体化しておかないと、我欲を丸出しにした我儘が出ます。自助と共助は対をなします。そして公助は、公共とは何かを考える中から出てきます。
茨城有権者の会の会報『うばら』26号への寄稿から、沖縄の辺野古埋め立て工事再開への抗議活動をしている方が発した、「ヤマトの国民」の無関心への哀しみが読み取れました。私たちは、身の回りのことに意識を取られて生活しています。これはある意味致し方ないことです。
ただ、自分に直接関わらないことであっても、それが人間の在り方としておかしい、悲惨だと感じられることが発信されたとき、耳を傾ける余裕だけは失いたくないものです。それを分かったように、「そんなことどうしようもない」と突き放す言い方や見かただけはしないようにしたい。理解する努力は失わないようにしたい、と思います。今、直接何もできなくても、知ろうとする姿勢にこそ意味があり、そして知ったことで既に、私の中では何かが変わっている。
「だから何?」とどうしようもない世の中の不正に耳を塞ぐのは、楽になりたいからだと思います。それに対しすぐ何かをできるなら、恐らく多くの人は不正をただす行動をすると思います。でも、それができないとき、そのやり方を知らないとき、ただただ問題の大きさに気持ちがふさいで、問題から逃げます。自己正当化をしながら。これは自戒を込めて、心に留めておきたいと思います。
6月27日埴輪公園にて