宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

人生からテイクオフ

 体調を崩していた利用者さんの急変の知らせはまだありません。次の勤務時、どういう結果になっているか、ちょっと怖い感じもしています。高齢の方は、徐々に体力が落ちていきますが、病気などで急激に体力が落ちたときは気力で持ち直すことも多く、いきなり急降下は、本当に臨終時、という感じがします。父も何度も危ないと言われ、かつ後2、3日と言われてから、1週間以上生きました。人間の最期に真剣に向き合った最初の経験です。人が人生から旅立つことは、大変なことなんだと感じました。

 父を看ていて、人生の高齢期は最期のソフトランディングへの準備期なのかも知れない、と感じていました。しかし、認知症高齢者の学びの問題を研究している若手研究者の方から、「私は死をテイクオフと考えています」と言われたことがあります。それ以来、テイクオフという言葉が耳に残っています。

 生まれ変わりを仏教の中では「輪廻」とか「輪廻転生」と言います。輪廻はサンスクリット語サンサーラに由来します。命あるものが、人だけでなく動物を含めた生き物として何度も生まれ変わることです。死んだ後、生前の行為(カルマ)の結果、次の生まれ変わりが決まります。この輪廻を仏教では苦と捉え、そこからの解脱が目指されます。仏教の四苦は「生老病死」、生きることも苦です。ここに更に四つの苦が加わって四苦八苦と言われます。

 残りの四苦は、愛別離苦(愛する者と分かれることの苦しみ)、怨憎会苦(恨み憎んでいる者と出会う苦しみ)、求不得苦(求めているものが得られない苦しみ)、五蘊盛苦(五蘊(人間の肉体と精神)に執着する苦しみ)です。このような仏教の考え方を、ニーチェは受動的ニヒリズムの宗教であると捉えました。

 死後のことは科学的には分かりません。哲学的には、死後に関して不可知論を取るのが妥当な考え方、と私は捉えています。でも、宗教が果たしてきた役割には、この死後の世界へのまなざしがあり、それが私たちのこの人生での生き方に大きな影響を与えてきたと思います。パスカルは『パンセ』で次のように書きます。

 「ひとがコペルニクスの学説を深くきわめないのはよいと思う。しかし、これは!‥‥‥霊魂が不死かどうかを知ることは全生涯にかかわることである」(ブランシュヴィク編『パンセ』218

 フランスの高等学校の文科系の最上学級の哲学の教科書『哲学講義』(P.フルキエ)では、「哲学が必要なのは、ただ人間として生きるためである」と言われます。なぜなら、「哲学とは、人生の合理的な骨組を構成しうるような諸原理の集成なのだ。このような骨組を欠くならば、人生の主要な問題について優柔不断な考えしかもたないことになる」。そして、そのことを自覚していないと、他の人からの意見を無批判に取り入れるか、あるいは気分に振り回されるかする。「つまり真に自己ではなくなる」と述べられています。

 また、「人類の大多数にとっては、宗教があればそれで十分である」とも言われます。信者は人が哲学のうちに期待する指導原理を見い出すから、と。

 私たちは、今この人生を生き切るために、この人生を超えた視点を必要とするようです。その意味で、人生の最終期は、ソフトランディングを目指すと同時に、テイクオフ(旅立ち)への準備期でもあるのでしょう。旅立ちに不必要なものをそぎ落としていく時間なのかもしれません。

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          ハラン、ラナンキュラス、リューココリーネ、雪柳

サチュレーション

 先日の勤務時、入居者さんの体調が気になる状態でした。もともと在宅酸素療法の適用者で、移動時には携帯用の酸素ボンベを使っています。年齢的にも心配な方です。サチュレーションが90%という状態が、ここのところ続いていたようですが、先日は、朝、さらに下がっていて、訪問診療でドクターが往診に来ました。

 バイタルサインとかサチュレーションという言葉は、普通の生活ではあまり聞きません。病院や高齢者施設では、普通に使われます。高齢者デイ・サービスでは、まず体温と血圧・脈拍の測定から始めます。バイタルサイン(生命徴候)にはいくつかあります。心臓が動いている、血圧が一定値以上に保たれている、息をしている、体温を維持している、排尿・排便をしている、等々。バイタルサインの測定には、通常、脈拍、呼吸、血圧、体温などが対象になり、数値化します。

 経皮的動脈血酸素飽和度(SpO₂)の測定値を含めることもあります。サチュレーション(saturation)というのは飽和度のことですが、医療的な意味では酸素飽和度(SO₂)のことです。現在は、パルスオキシオメーターで測定する経皮的(percutaneous)動脈血酸素飽和度SpO₂の値を言います。酸素飽和度の測定方法にはもう一つ、血液を採血して測定する方法があります。これは動脈血酸素飽和度SaO₂と言われますが、両方の値はほぼ同じになるそうです。

 バイタルサインのチェックを習慣的にやっていますが、その意味をどこまで分かってやっているか、と言われると疑問です。でも、血圧に関してその人の通常の収縮期と拡張期の血圧が分かれば、それから大きく変動していると気を付ける必要があります。単に上が130mmHg以下だからとか下が85mmHg以下だから問題ない、ということではありません。体温に関しては、平熱かどうかは健康かどうかに直接かかわるサインで分かり易い。

 サチュレーション(酸素飽和度)は在宅酸素療法の適用者の場合、基本的に毎日測ります。以前勤務していたデイ・サービスでは、ある時点から、週一の割合で、利用者全員測るようになりました。

 現在、酸素飽和度は、パルスオキシオメーターで簡単に測れます。本来は動脈血を採血して、ガス分析装置にかける必要がありますが、手指の爪に挟んで光センサーで測定します。血液中のヘモグラビンがどの程度酸素と結びついているかを、ヘモグラビンの持つ特性から割り出します。

 血液の半分は血漿と言われる薄い黄色の液体で、赤く見えるのは赤血球の色です。赤血球は血球という細胞成分の一つで、酸素を取り込み二酸化炭素の排出をします。この赤血球の中のタンパク質であるヘモグラビンが、酸素を取り込む働きをしています。酸素とヘモグラビンが結び付くことで血液の赤色はより鮮やかになります。パルスオキシオメーターは、光センサーを指先につけて、光の透過する割合から、ヘモグロビンと酸素の結合している割合を出します。ヘモグロビンは酸素と結合していると赤色をあまり吸収しませんが、結合していないと赤色を吸収します。96%~99%が正常値です。

 通常の生活ではあまり測らないし、意識もしていませんが、高齢者施設では結構頻繁に測定します。100%も正常値ですが、過呼吸状態の時測定すると、100%です。浅く早い呼吸を必要以上に繰り返すと、酸素が体内に増えすぎて二酸化炭素とのバランスを崩して起こる症状です。過呼吸による発作に襲われると、胸が苦しく、呼吸がしづらいことから、本人は酸素が足りないと思いますが、不足しているのは二酸化炭素です。以前はよく袋を口に当てて「ペーパーバック法」を行いましたが、「低酸素で死亡したケースがあり」、現在は少なくとも素人がやっては危ないと言われています。応急処置は浅い呼吸をゆっくり行い、1、2秒息を止めてから、ゆっくり10秒かけて吐く。強い発作でも、1時間くらいで収まると言われています。

 介護の現場にいると、知らないことが沢山あることに、日々気づかされます。生きていること、生命現象の複雑さ。食べて、寝て、排泄して、というごく当たり前のことが、こんなに大変なことかなのかと、愕然とすることもあります。取りあえず、今日はここまでにします。

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     昨年の那珂湊支所展示室企画展「楽しいひな祭り」(2019年2月19日撮影)

世界の中での活動の復権

 このところ、新型コロナ・ウィルス肺炎への対応で、人の動きがかなりセーブされています。トレーニング・ルームが閉鎖されているので、身体が動かせず、肩こりが解消しません。出来るだけ、歩くようにしています。

 さて、ハンナ・アーレントの『人間の条件』のキャッチコピーを作ると、タイトルのようになるかなと思います。アーレントは人間の活動力を「労働」、「仕事」、「活動」に分類しました。また、公的領域と私的領域が区別され、それは自由の領域と生の必要性に従属する領域の区別でした。公的領域での活動力の代表が政治活動であり、私的領域は奴隷的労働によって維持されていました。

 近代の個人主義によって、私的領域は親密さの領域として著しく豊かになり、近代の私生活は政治領域と対立するというより、やはり近代に登場する社会的領域と対立するようになりました。近代以降、「その成員がたった一つの意見と一つの利害しか持たないような、単一の巨大家族のように成員であるかのように振舞うよう要求する」社会が台頭した、と言われます。この分析を読んでいると、日本の「世間」と西欧の「社会」は同質ではないかと思わさせられます。よく日本には「社会」という中間地帯が無いと言われますが、「世間」はあります。

 自由の領域というと、私たちは、自発性の発揮される領域と考えます。しかしアーレントは、古代ギリシアにおける自由に選べる生活様式とは、「美しいもの」に関連する点で共通していると言います。つまり「必要でもなければ単に有益でさえないようなものに関連している」三つの生活領域を上げています。

 この三つの生活様式とは、第一が肉体の快楽を享受する生活です。そこでは与えられているままの美しいものが消費されます。第二がポリスの問題に捧げられる生活で、卓越が美しい功績を生み出します。第三が、永遠なる事物の探求と観照に捧げられる哲学者の生活で、永遠なる事物の不朽の美と関わります。

 付け加えると、アーレントは哲学が永遠を目指したことに批判的です。彼女は不死性を求めるべきと考えています。死すべきものの任務は、「無限の中にあって住家に値する物――仕事、偉業、言葉――を生み出す能力にある」(34頁)と言います。そして残念ながら、哲学においては「永遠にたいする関心のほうが、不死を得ようとするあらゆる種類の熱望に対し勝利を収めた」(37頁)のです。しかし、これはローマ帝国の没落が、死すべきものの手になる仕事に不死なるものはないことを証明したからだと言われます。

 現代における「活動」の代表例は芸術や学問でしょうか。アーレント古代ギリシアにおける政治を活動の代表と考えていました。活動については「物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行われる唯一の活動力」であり、アーレントが人間の条件として挙げる「多数性」に対応するものと言われています。多数性とは、私たちが人間であるという点ですべて同一でありながら、誰一人として同一でないことを言っています。この私たちの存在の仕方が、「平等と自由」という理念の根拠と言っていいと思います。活動とは、自由の領域で行われるものなのです。

 世界については、「世界は万人に共通のものである。これは、世界の唯一の性格であり、世界が万人に共通であればこそ、私たちは世界のリアリティを判断することができる」と言われます。そしてこの世界に適合するのが共通感覚(常識)なのです。

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       ひな祭りは終わってしまいましたが、とても簡単に出来ました

世界は誰かの仕事で出来ている

 缶コーヒー「ジョージア」のCMのコピーです。梅田悟司さんというコピーライターによって生み出された言葉です。梅田さんはCMの世界では有名な人のようですが、私は今回初めて知りました。

 私もこのコピーに惹かれました。「社会」ではなく、「世界」という言葉が味噌でしょうね。ある種、宇宙的広がりが感じられます。そして、「仕事」って何だろうと考えている人たちの共感を呼んだ。

 ところで、仕事と労働とはどう違うのでしょうか。唯一仕事は、賃金が発生することを第一条件にするとも言えます。労働は、家事労働に関しては賃金が発生しません。同じことをしていても、仕事になると、賃金が発生します。

 ハンナ・アーレントは、人間の活動力を「労働」、「仕事」、「活動」に分類し、後者程、生の必然性から解放され、自由の領域に関わると捉えます(『人間の条件』)。そして、この三つの活動力は、新しく生まれてくる新来者に世界を与え保持する課題を持っていると言います。

 「労働」は生命を維持するのに不可欠のものであり、「生存」の必要性に従属し、耐えがたい労苦と困難と結びついています。近代以降、労働はその生産性の高さで、活動力の中における地位をあげました。人間を動物から区別するものとして労働を挙げた、マルクスの影響もあると思います。生産労働と非生産労働の区別とか、知的労働と肉体労働の区別など、労働をベースに分類しています。ところで、「労働」と「仕事」の根本的区別は、その結果が残るかどうかにあると、アーレントは主張します。

 「生産的労働と非生産的労働の区別は、そこに偏見的態度が見られるにもかかわらず、仕事と労働というもっと根本的な区別を含んでいる。実際、背後になにも残さないということ、努力の結果が努力を費やしたのとほとんど同じくらい早く消費されるということ、これこそ、あらゆる労働の特徴である」(『人間の条件』「第3章 労働」

 現代社会において、仕事は制約が多いし、自分の自発性から発するというより、自主性や主体性を要求されるものです。課題が外からやって来て、その解決を要求されるのが仕事。これに対し、ボランティアに代表されるような「活動」は自発性から始まります。しかし、多くの現実のボランティアは、取り組み方は自発的ですが、課題はすでに示されています。ところで、この自発性という基準は、アーレントの活動力の区分の中で「活動」を定義するとき、大きな意味を持ってはいません。

 仕事も労働も、それらは誰かの必要性から発します。そしてその誰かは、「私」でもある。他者からの要求に向き合い、それを解決するために働くことで、「私」の必要性への対応も学びます。或いは「私」の必要性の世界が広がり、深められる。こう考えると、「仕事」を通して、私たちは世界を構成する重要な力の一つを手に入れることができるとも言えます。

 「仕事」で鍛えられ、「仕事」の一線を退いた高齢者たちは、世界を構成・保持する大きな活動力を持っています。後はそれをどう使うか。単に自発性を超えて、人間の自由の領域を創造するものとしての「活動」をどう捉えるのか。「美しいもの」というのがどうやらキーワードのようです。これはまた別に書いてみたいと思います。 

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         2月26日 サンシュユ、トルコキキョウ、スイトピー、ゴットセフィアナ

『ボヘミアン・ラプソディ』

 「春に3日の晴れなし」と言われますが、土曜日の小雨から昨日今日と晴れています。この晴れも明日の午後には崩れるようです。春は高気圧と低気圧が交互にやってくるので、お天気が変わりやすい。昼間の風は冷たさが減りましたが、夕方以降は冷えてきます。

 『ボヘミアン・ラプソディ』を漸く視聴しました。評判だけはずっと聞いていて、観たいと思いながら、そのままになっていました。フレディの生い立ちやクイーン結成話などに、なるほどと思いましたが、映画自体は、テーマが何なのか、分かりませんでした。まぁフレディの伝記映画ということですから、映画を観ていろいろ考えることがある、ということでいいのでしょう。でも音楽は素晴らしかった。1985年のライブエイド(LIVE AID)のステージは、この映画で忠実に再現されていましたが、圧巻でした。

 ライブエイドは、「一億人の飢餓を救う」というスローガンの下、1985年7月13日に行われたチャリティーコンサートです。メイン会場は、イギリスのロンドン郊外、ウェンブリー・スタジアムアメリカのフィラデルフィアJFKスタジアムです。ウェンブリーには来賓として、チャールズ皇太子とダイアナ妃(当時)が出席していました。

 ウェンブリーの収容人数は90000人、当日の観客数約72000人。クイーンの21分間のステージのフィナーレを飾る「We Are The Champion(伝説のチャンピオン)」では、聴衆が一体となって波打っていました。映画と1985年のステージ映像の並列画面を見ていても、主演のラミ・マレックが忠実にライブエイドのステージを再現しているのがよく分かります。

 今見ても鳥肌が立つようなステージです。あのライブエイドのステージで、クイーンは史上最高のバントの一つになったと言われますが、納得します。そして音楽の持つ力の凄さを見せつけるステージだったと思います。「RADIO GA GA」の熱唱の後に、フレディは聴衆に対し「エーオ」の即興コール&レスポンスを誘い、会場が一体になって盛り上がります。映画のラミ・マレックの演技は絶賛されていますが、私には実際のフレディ・マーキュリーの格好良さに比べて、ちょっとコミカルな感じがします。

 「ボヘミアン・ラプソディ」はロックとオペラを融合させた曲調で、歌をつなぎ合わせるとか、情熱的な文章というのが、ラプソディ(狂詩曲)のもともとの意味です。ボヘミアンというのは、自由奔放に生活する人たちのことです。ロックはもともとは反権力の音楽で、カウンターカルチャーのシンボルのようなものでした。これが、1970年代後半には産業音楽になったと批判されます。クイーンの結成はまさに1970年代で、メンバーはみな高学歴、フレディは圧倒的歌唱力を持ち、全員クラシック音楽の教養も持っている。ロックの代表的バンドとは言い難い面があります。しかし、あのライブエイドのステージ・パフォーマンスに、涙する人が多いのは事実です。

 フレディは1991年に、エイズで亡くなりましたが、1985年のライブエイド時点では、メンバーだけが彼の病気を聞かされていました。ライブエイドでのパフォーマンスへの感動は、純粋にその神憑り的パフォーマンスへの感動だと思います。感情を揺さぶるものは、社会的・理性的コントロールを逸脱する力を持っています。それが社会変革へのエネルギーを秘めているのは事実で、体制側が恐れるものでもあります。ところが産業主義に飲み込まれることで、牙を抜かれ、自滅していく。確かに批判の意味も分かります。

 モーツァルト人間性には、彼の生みだす音楽とは別で、結構下品なところがあったと言われます。音楽の持つ力には、理念とか、思想とか、人間性とは別のものがあるのではないでしょうか。

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 内容と全然関係ありませんが、2月19日の水戸駅南口、ペディトリアンデッキで見かけたミーアキャット

2月の水戸で

 16日、東京で研究会がありました。水戸駅で電車を降りてから、図書館に本を返却して、夜の大手門に行ってみました。霧雨の中、煌々と明かりに照らされ、無人の中に威容を誇るように浮かび上がっていました。晴れた日の昼間にまた、来たいなぁと思いながら、シャッターを切りました。

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 今日は、母の水戸赤十字病院受診に付き添って、帰りがけ、弘道館公園の梅を観てきました。まだ満開ではありませんでしたが、車の中から二人して、「きれいね」と何回も嘆息。「さすがに、水戸は梅の都だね」と母は何度も感歎していました。ちょっとした親孝行かなと、近場にこういう景色があることに感謝です。

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シラーの言葉:「人間は遊んでいるところでだけ真の人間なのです」2)

 今日は朝方、少し雨模様でしたが、お昼頃から晴れ間が出て来て、暖かくなっています。2、3日は春の陽気のようです。恐らく、梅がどんどん咲いて行くでしょうね。9日に、デイ・サービスで観梅に行きましたが、寒くて、ドライブだけになりました。利用者さんたちは、どうしても施設の中で過ごす時間が多いので、外に出かける機会を喜んでくれます。「ああ、きれいね」という言葉が響き合う瞬間は、本当に満たされて行く歓びを感じます。そこでは場を共有することで、歓びを共有し合っています。

 さて、シラーにとって「遊び」とはどのようなものだったか。人間の持つ二重性を昇華するものと捉えていたようです。人間の二重性とは、感性的・物質的側面と理性的・精神的側面という捉え方です。これはこの当時の人間観や特にカント哲学の影響と考えられます。

 しかしまた、シラーは詩人でもあり、ゲーテに心酔していました。『人間の美的教育について』(1795年)は、教育学における古典的テキストであると同時に、遊びと人間形成の関係を論じた論考の嚆矢として高く評価されてきました。ただし、その矛盾を含む内容の解釈の難しさには定評があります。実際、読んでみて、全体として捉えきれない、という感想を持ちました。文学的要素と哲学的要素が一体化していて、その表現の意味がつかみきれません。

 シラーは人間の持つ心的傾向性・衝動を二つに分けました。一つは感性的なもの(素材衝動、物的衝動)で、人間の物質的生存・感性的天性から発します。もう一つの衝動が、人間の絶対的生存あるいは理性的な天性から発する形式衝動です。そして、この二つの衝動を調和させるものとして、遊戯衝動を考えました。カントは感性的領域よりも理性の領域を上に置きましたが、シラーは同等に扱っています。カントでは理性の領域は精神の領域で、シラーの理性はカントではむしろ悟性(思考)にあたるのかなと思います。ともあれ、シラーは、感性と理性を二つの衝動として同等に位置付けています。ではどうやって調整していくのか。

 シラーはそれぞれは矛盾していて、そのままでは調和不可能と考えています(「直接に感覚から思考へ移ることは出来ません」第20信)。一度、それぞれから一歩退くことが必要なのです。そして、美的なものは自由の領域であって、この領域で遊戯衝動が作動して、二つの衝動はここで調和されることが可能になります。

 人間の感性的・受動的能力と構想的・能動的能力との間を繋ぐものが美への感受性と美との戯れで、自然に支配された状態から叡知界(自由)への移行を実現するもの が、美的感受性だったと言えます。

 「気持ちのよいものとか、善いこととか、完全なものは人間にとって、ただ真剣なものなのですが、しかし美とは遊んでいられます」(第15信)

 美の領域は自由の領域であり、二つの衝動から自由に、戯れていることが出来る領域だということでしょう。その中で、人間性が建設されて行く。遊戯衝動は物質的なものにだけ向けられると考える必要はない、とも言われます。遊びの向かう対象は、シラーが考えている人間性建設のために必要な美の領域だけではない、ということです。

 二つの衝動(感性と理性)はそのままでは緊張をはらんだままで、矛盾したままです。しかし、これらは共に人間の人格への形成には必要なものなのですが、直接的移行はできないと言われています。中間状態を経て質料(感性)と形式(理性)が調和します。この中間状態に至らせるのが、美だと言われます。

 「美によって、感性的な人間は形式に導かれ、そして思索に導かれるのです。美によって、精神的な人間は質料Materieに還元され、そして再び感覚世界が与えられるのです」(第18信)

 そしてこれらの衝動は精神の中に存在しますが、精神そのものはこれらの衝動と区別され(第19信)、意志がこれらの衝動のあいだにあって、一つの完全な自由を保持する一つの権力(第19信)と言われます。

 ここまで読んでくると、シラーが、遊戯の中で人間が真の人間になるといったことの意味が何となく分かってきます。感性的現実を生きる素材衝動・物的衝動と、理性的・道徳的理想へ向かう形式衝動との間のせめぎ合いは、直接調節は無理であって、美的中間状態を必要とする。その美的中間状態は遊戯衝動の対象だということでしょうか。

 『人間の美的教育』は、人間の精神の世界を描き出している著作であり、不思議な魅力を持っています。ただ、意図が読み取り難いのは感じました。理論的でもあり、感覚的でもある文章で、行ったり来たりしながら読んで行くと分かってくる部分があります。

 遊びがなぜ人生において、教育における人格形成過程だけでなく重要なのか、それに一つの解釈を与えてくれます。もちろん、私たちは死ぬまで成長し続ける存在である、という観点からは、人格形成に終わりはないとは言えると思います。そこまで教育的に考えなくても、私たちは自分の中でも矛盾を抱えていますが、人と人との間でも矛盾を抱えています。遊戯衝動は、そういう矛盾に(いい意味での諦めを含めた)調和を生み出すための中間領域を開いてくれるのだと思います。

h-miya@concerto.plala.or.jp