宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

シラーの言葉:「人間は遊んでいるところでだけ真の人間なのです」1)

 今日は節分です。節分というと立春の前日、ここ35年間は2月3日ですが、2日の年や4日の年もあります。節分は各季節の始まりの日の前日のことで、立春立夏立秋立冬、それぞれの前日のことでした。節分は季節を分けることを意味しています。江戸時代以降、特に旧暦の新年である立春の前日をさす場合が多くなったようです。

 季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると信じられていたため、それを払う悪霊払いの行事が行われていました。豆まきの行事は古くから行われていたようです。文献に現れるもっとも古い記録は、室町時代の応永32年(1425)で、すでにこの頃、都の公家や武家で豆まきが習わしになっていたようです。行事食の恵方巻はこの辺りでは最近です。

 さて、タイトルの表現は、正確には次のようになります。

 「人間はまったく文字どおり人間であるときだけ遊んでいるので、彼が遊んでいるところでだけ彼は真の人間なのです」(フリードリヒ・フォン・シラー『人間の美的教育について』法政大学出版局、2003年、99頁

 これは何を言っているのでしょうか。ここには人間的能力における遊戯衝動の位置づけが関わっています。遊戯とか遊びはドイツ語だと「spiel」、「戯れ」になります。遊びって何か?『ホモ・ルーデンス中央公論社、1971年を書いたオランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガ(1872-1945)は、遊戯は文化よりも古く、「遊戯の基本的な層のすべては、すでに動物の戯れの中にはっきりと現れている」(11頁)と言います。以下、遊戯について書かれている部分を、少し抜き出してみます。

 「遊戯というものは最も素朴な形式のそれ、動物の生活の中のそれでさえ、すでに純生理学的な現象以上のものであり、また純生理学的に規定された心的反応以上のものである、ということである。‥(中略)‥遊戯は何らかの意味を持った一つの機能なのである」(12頁)

 「遊戯は深いところで美的なものと繋がりを持っている」(13頁)、「人を夢中にさせる力の中にこそ遊戯の本質があり」、「自然はわれわれに遊戯を与えてくれた、しかもそれは、ほかならぬ緊張、歓び、面白さというものを持った遊戯なのである」、「遊戯の<面白さ>はどんな分析も、どんな論理的解釈も受けつけない」(14頁)、「無条件に根源的な生の範疇の一つとしての遊戯」(15頁)

 遊戯という在り様は、生の持つ根源的な在り様の一つだということです。それがどういうものか、は『ホモ・ルーデンス』の中で展開されていくことになります。ホイジンガホモ・ルーデンス(遊ぶ人)については、これからも少しずつ考えていきたいと思います。

 さて、シラー(1759-1805)は文豪ゲーテ(1749-1832)と同時代に活躍した人で、哲学的詩人とも言われます。その彼に大きな影響を与えた哲学者が、やはり同時代のイマヌエル・カント(1724-1804)です。シラーは、カントが芸術を人類に独自な根源的能力であることを証明した点に、強く影響されたと言われます。カントは芸術の国を、人間の意志を自然法則に従わせる現象世界(自然の国)と人間の自由意志が支配する叡知界(自由の国)とを連絡する関節として設定していました。シラーは美的文化の橋を設定して、自然国家から自由国家への到達を考えました。芸術の国を、理想を実現するための結節点と位置付けていたのです。

 ホイジンガは、遊びは動物の中にすでに見られると言っていますが、シラーは遊んでいるところでだけ真の人間なのだと言っています。ここからは、「遊び」という言葉で表現しているものの意味合いが違っていることが、分かります。「遊び」という言葉のカバーするものがどのようなものか。そして、シラーが人間を真に人間にするものと捉える「遊び」はどのようなものなのか。シラーの考え方をもう少し追ってみたいいと思います。

 節分の豆まきは年中行事ですが、遊び心が溢れていると思います。文化の底には「遊び」がある。文化そのものが遊びの結晶なのかもしれません。

h-miya@concerto.plala.or.jp