宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

幸福をめぐって5)心の落としどころ

 バートランド・ラッセルは幸福な人たちの一般的特徴として「熱意」をあげました。人生への興味を失わない限り、人は幸せでいられる。しかし、です。人生100年時代の幸福はどう捉えられるのでしょうか。今年で、88歳になる作家の五木寛之さんは、「迷いは深まる一方」と言います。体力・気力の後退していく「下山の時代」をどうやり繰りして支えながら生きていくか、日々「のたうち回って生きています」と語られています(東京新聞』「生きる 人生100年時代に」2020年1月6日)。

 五木さんは日本自体も下山に入ったけど、「登山も楽しい、下山も楽しい」だと言います。それぞれに意味があって、それを見い出せるかどうか。確かに登山の時期は、人生においても、目標があって頑張りやすいし、達成感という充実感を感じます。こういう時期の幸せというのは、まさに「熱意」という言葉で表現できる気がします。

 中島義道さんは『不幸論』(PHP新書、2002年)で、幸福は錯覚によって成り立つという立場から、幸福であろうとすることから生じる様々な弊害を論じました。三木清は『人生論ノート』「幸福について」(新潮社、1954年)の中で、「我々の時代は人々に幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸なのではあるまいか」(16頁)と書いています。『人生論ノート』は1938年6月号『文学界』に第1回目が登場しました。1938年といえば、国家総動員法が公布されて、戦時体制が確立した年です。その前年には盧溝橋事件から日中戦争が始まっています。時代背景を考えれば、三木が言おうとしたことが分かります。三木清は幸福とは人格だと言います。そして「今日ひとが幸福について考えないのは、人格の分解の時代と呼ばれる現代の特徴に相応している」と。翻って、中島義道さんが言う不幸とは、平時の人間の生活にまつわる幸福の成り難さに関わっています。

 私たちが日常的に求めているのは何なのか。生きている充足感のようなものではないでしょうか。「幸福」というと大上段に構える感じがします。登山の時代には、諸々の為すべきことがあり、それをクリアしていくことで達成感や充実感があります。いちいち幸福とは何か、と立ち止まって考えることはない。考えるときは、問題に直面しているときです。

 下山の時代はどうなのでしょうか。下山の時代にも、もちろん為すべきことはありますが、登山の時代のような切羽詰まった感は薄い気がします。ある意味、やってもやらなくても大差ない、とも言えるような。もちろん、下山の時代も今や働かなくては生活が厳しいという時代ですから、働き続けるという為すべきことはあります。しかし、やはり、登山の時代のような、自分以外に支えるものが多々あって、という状況とは異なっています。

 五木さんが「のたうち回って生きています」といった言葉が響いてきます。何を求めてのたうち回るのか。私は、今生きているということに、その都度、自分の心を合わせようと、心の落としどころを探してのたうち回る気がしています。その激しさは、人によって異なっていたとしても。

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