宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

集団とリーダーシップ

 私たちは自然に群れます。そして、人が集まって何かをやろうとすると、必ずリーダーが出てきます。自発的な集まりの場合、リーダーが性格的には謙虚な方が上手く行くようです。ただ集まりが存続するには、リーダーには続けようとする意志の強さも必要で、この謙虚さと事を為すにあたっての揺るぎなさという矛盾した組み合わせが不可欠のようです。

 第5水準のリーダーシップというリーダーシップの考え方があります。第1水準は「有能な個人」で、才能・知識・スキルで生産的な仕事をします。第2水準は「組織に寄与する個人」。組織目標達成のために自分の能力を発揮し、他の人たちと協力します。第3水準は「有能な管理者」で、組織する能力を発揮して、決められた目標達成に効率的・効果的に貢献します。第4水準が「有能な経営者」で、ビジョンを打ち出し、その実現に向けた努力を生みだし、組織に刺激を与えます。そして第5水準は「第5水準の経営者」です。謙虚さと大胆さという2面性を持つ性格によって、良い企業を偉大さを持続できる企業に飛躍させます。この展開、組織のリーダー論としては、なるほどなぁと思います。

 しかしそもそも人は何のために集まろうとするのでしょうか。仕事をして生活費を稼ぐために就職する、というのは現代ではごく普通の考え方です。そして、組織に属することで、私たちは生活費以外にも多くのものを獲得します。人間関係の作り方から、社会の在りようへの洞察力まで。いわゆる常識と言われるものの多くを、仕事を通して身に付けていきます。

 確かに組織の力はすごいと思います。一人では決してできないことを成し遂げます。かつ継続する組織は、組織自体がひとつの有機的生命体で、展開していく場になっています。

 この組織とは必ずしも企業や政府や地方公共団体だけではなく、学会とか文壇や芸術関係の会派、隣近所、同窓会、親戚関係等々。阿部勤也さんが「世間」として定義した人間関係の環も、含めていいと思います。私たちは、知らず知らずのうちにこういう世間の中で生きて来ましたが、今、日本において「世間」は希薄化してきているとも言えます。その分企業組織などの仕事関係の組織で結びついて生きて来ましたが、それもまたリストラや派遣の増加などで、希薄化してきています。

 人間の持つ所属欲求は、安全や安定を確保する適応の形態とも言えますが、所属の在り方が形を変えて来ています。若い世代だけでなく、定年を迎えた世代は、新しい所属の形を作り出そうといろいろな試みをしています。定年世代の組織形成は、リーダーシップ論とも関わります。その場合、軸に来るのは何なのか。それぞれの組織は、暗黙の部分と明示の部分の両方を持ちます。その組織が何を目指すのかは、明示の部分だと思います。「誰が・どこで・どういうやり方で」に関わるものは、暗黙の部分が多いでしょう。この暗黙の部分も含めて、軸は何なのかを考える必要がありそうです。

 「世間」に生きていたとき、集団に所属することは当たり前のことで、個人はそれを前提に自分の力を発揮することに意識を集中できた気がします。その「世間」が時代の流れにそぐわなくなって、「世間」のうっとうしい側面の方が強くなり、多くの人がなんとなくそれを忌避しているうちに、基底的基盤がなくなってしまった。それと同時に、社会のことを意識的に問題として捉えることなく、自分のことに集中していればいいという環境も崩れた気がします。

 「世間」のリーダーは、暗黙のリーダーで、おおむね世慣れた・それぞれの「世間」の事情に明るい仕切り人だったと思います。グローバル化の流れの中で、このような「世間」は衰退しています。「世間」にうっとおしさも感じていたメンバーは、自分からその立て直しに参加するでもなく、ただ、暗黙の安全地帯でもあった「世間」が崩れたことで、自分への集中も希薄化してしまった気がします。

 集団形成やそのリーダーシップのあり方を明示的に見直す必要が出て来ています。なぜなら、私たちの「個」は「集団」との緊張関係の中から屹立するものだと思うので。「私」から始まるのではなく、「私たち」から始まります。その「私たち」の希薄化は「私」をも脅かすものと考えられます。

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