宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

作ることと思い出すこと

 あっという間に11月が終わろうとしています。先週から、今週は特にあちこち出歩いているうちに時間が過ぎていきました。20日の授業の後、従姉妹会があって、会場のホテルに直行し、宿泊。23日、24日は仕事でした。24日は、小雨の中、施設の恒例の行事「さんま焼き」があり、さんまの値段が高いことに改めて驚かされました。

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             従姉妹会にて

 

 27日は、月一のお花の会で、クリスマス用の作品を制作。フラワーアレンジメント風の生け方で、オアシスを埋めるのですが、これが難しかった。普通に活ける場合は、花材を見て何んとなくイメージが湧くのですが、今回は「うーん」という感じでした。先生に直してもらって、なるほどこうなるか、で何とか形になりました。体験していないことから、何か自分なりのものを作ろうとしても、なかなか難しいです。記憶と創造のメカニズムには多くの共通点があるそうです。

 イギリスのオックスフォード大学の数学者ペンローズ教授は、「創造することは思い出すことに似ている」という仮説を立てているそうです。もう少しで証明できそうな数学の定理について考えているときの感覚が、度忘れした友人の名前を思い出そうとしているときの感覚に似ているとか。茂木健一郎さんは、コンピュータに何か新しものを創造させようとした時の「ジャンク」(意味のないもの)の多さに比べ、人間の脳から生み出される新しいものは、非常に効率がいいと書いています。コンピュータに新しいものを作らせるには、すでにある情報にランダムなノイズを加えるそうです。そうやって出来上がったものを人間が判断して、良いとか悪いとか選択するのですが、その際に大量のジャンクが発生する。これに比べ、人間の脳は記憶と関連させながら創造性を発揮しているかもしれない、というのです。つまり手あたり次第に何かを試して、新しいものに到りつくのではなさそうだということです。

 「記憶の想起のプロセスに、ほんのちょっとの変形や、編集を加えることで、歩留まりの良い創造性のプロセスが立ち上がっているのかもしれない。過去に学んだ意味の体系を受け継ぎつつ、新しいものを生み出すという創造性の秘密が、そこにありそうである」(茂木健一郎『脳の中の人生』中公新書ラクレ、33頁) 

 学びつつ創造していくには、指導するものの介入にもコツがあるでしょう。私たちのお花の先生は、決して「これでなければ」という言い方はしません。それでも、先生の手が入ると、俄然いいものに変わる。それは教えられる側にも分かります。自分ではできなくても、ある程度自分で苦労したからこそ、直されて「その違い」が分かります。

 また、先生によっても直し方にそれぞれの「くせ」があるかもしれません。以前付いていた先生方にも、やはり直してもらうと「なるほど」と思いました。それは今の先生とは、直し方もやはり少し違うかもしれないと思います。それぞれの先生の感性の違いや技法の違いなどがあります。私たちの中には、「よりよいもの」を判断する尺度はあっても、これが絶対という判断尺度は備わっていないのかもしれません。比較検討という尺度は、人間が生き抜くときには必要なものですが、「絶対」のものは必要ないとも言えます。「絶対」というのは人工的なものであり、カントが言うように理性の欺瞞性から来ているとも言えるかもしれません。

 新しいものを生み出させるためには教える側ができるだけ介入しない、あるいは場合によっては教えないで待つ方がよい、という考え方があります。でも、記憶にないものからの創造が本来あるのか、と考えると、学ぶことの、経験することの重要性が分かります。学ぶことは楽しい。それが続くことが大切なのでしょう。

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                27日制作のクリスマスのお花

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