宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ニーチェ『ツァラトゥストラ』4:遊ぶ子ども

 昨日は少し蒸し暑かったです。今日は、風が涼しく、時折陽も射してきて、秋らしい陽気です。畑に彼岸花が咲いていました。

 さて、なぜツァラトゥストラは山に籠ったのか。それはラクダから獅子への変化のためではなかったか。序説の後の説話の冒頭が「三つの変化について」であるのは、ツァラトゥストラの精神の変化についてその来歴とこれからを先取りして語っているからではないでしょうか。これからというのは永遠回帰で蛇を食い破って、ツァラトゥストラ自身が超人=子どもへと変化することへの予感と言えると思います。

 この子どもは遊ぶ子どもです。ニーチェは遊戯という在り方に、もっとも偉大な課題への取り組み方を見ていました。

 「偉大な課題に取り組むのに、遊戯よりももっとよい取り組み方を私は知らない。遊戯ということは、偉大であることのしるしともいうべく、一つの本質的な前提だ」(ニーチェ『この人を身よ』「なぜ私はこんなに利口なのか」10)

 そしてさらに人間の偉大さを表す定式を「運命愛」と表現します。これは「何事によらず現にそれがあるのとは違ったふうなあり方であってほしいなどとは決して思わないこと」と言われます。しかし、ツァラトゥストラニーチェの肯定とは、大いなる肯定・聖なる肯定であって、現にあるがままを肯定することではなかったはずです。となると、この辺りはどう読んだらいいのか。一つ言えることは、人間の偉大さの徴であり、「愛」と言われている点でしょうか。ともあれ、受け入れること、それが愛することと言われていると思います。

 遊戯(das Spiel)が偉大(die Groesse)さと結びつけられています。通常遊戯というと真剣さの欠如、気晴らしというイメージです。偉大さというと優れていることや立派なことを意味し、真面目さの極地のようなイメージがあります。ニーチェの言い方には、一般的解釈では最初に「えー」と思う部分があります。或いは、通俗的でなくていいという思いで飛びつきたくなるものも。この辺りの表現もそうですよね。でもこの辺り、遊戯に込められている意味をもっと多角的に捉える必要があります。

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          畑の彼岸花

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