宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ニーチェ『ツァラトゥストラ』3

 台風15号は首都圏に甚大な被害を引き起こして、通り過ぎて行きました。千葉市付近に上陸し、関東南部に大きな爪痕を残しました。強風でコンテナが散乱した横浜市本牧ふ頭の様子や、千葉県市原市のゴルフ練習場のネットが倒れてその支柱が住宅に倒れ込んでいる様子など、結構恐ろしいものがあります。自然災害の恐ろしさを思い知らされる出来事でした。

 さて『ツァラトゥストラ』の序文は大筋、ツァラトゥストラ没落の物語です。隠遁者から人間の世界への。そしてそこでは、「人間は動物と超人のあいだにかけ渡された一本の綱である」ことが、綱渡り師の芸を見ようと集まっていた民衆にむかって、説教されています。人間は過渡であり、目的ではないと言われています。これは現代のヒューマニズム・人間中心主義批判につながります。しかし、このツァラトゥストラの言葉は、民衆には届きませんでした。この序文は結構、人間批判として納得させられながら読んだ部分です。ここにはまた触れることにして、気になっている「精神の三態の変化」の部分を考えていきたいと思います。

 ラクダ―シシー子どもと精神は変化していくとツァラトゥストラは語ります。ラクダとは、内に畏敬を宿す精神であり、重いものを求めます。もっとも重いものとは何か?

 「自分の高慢さに苦痛を与えるために、わが身を低めることではないか? 自分の知恵をあざけるために、自分の愚かさを明らかにすることではないか?」

 重荷に耐える精神は、諸々の重いものを背負って、砂漠へ急ぐラクダのように自分の砂漠へと急ぎます。そしてここで第二の変化が起こります。精神はシシになるのです。「なんじ、なすべし」がラクダの精神だとすれば、シシの精神は「われ欲す」です。しかし、シシにも為し得ないことが「新しい諸価値の創造」であり、そのためにシシは子どもにならなければならない、と言われます。

 「子供は無邪気そのものであり、忘却である。一つの新しい始まり、一つの遊戯、一つの自力で転がる車輪、一つの第一運動、一つの神聖な肯定である」

 ツァラトゥストラは序説の部分で、最後の人間を語りました。最後の人間とは、自分自身を軽蔑することのできないもっとも軽蔑すべき人間と言われます。彼らは高望みせず、争わず、身を寄せ合います。そして、彼らは幸福を考案したと得々とします。民衆は「われわれにこの最後の人間を与えよ」と叫びました。これがツァラトウストラを落胆させ、「私はこれらの耳にふさわしい口ではない」と言わしめます。

 ツァラトゥストラの肯定とは、子どもの神聖な肯定であり、それは畏敬の精神が、自由の精神を経て到達する、遊戯する子どもの境地なのです。最後の人間があるがままの自己肯定を提示したことに対し、ツァラトゥストラは自己超克としての自己肯定を語りました。

 ニーチェが語る肯定は、すべて、現存の人間のあるがままではなく、人間を超越する境地での肯定でした。この子どもの境地とはどのようなものか、更に考えてみたいと思います。

h-miya@concerto.plala.or.jp