宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ケアにおける主観的関係性

 ケアリングに決まった形はない。それはその通りだと思います。ただ、望ましい在り方はどういうものか、それは考える必要があります。

 ケア対象者が、30分毎にトイレ介助を要求するとき、それに一人で対応するには無理があります。かと言って、無視することもできない。ケアする側とケアされる側の関係性が悪くなくても、ケアする側は疲弊します。複数の人間での対応と言っても、現実には難しいものがあります。

 ケアの倫理を主張するネル・ノディングズは、道徳の普遍原理の考え方――同じ状況にいる他者に対しては同じように振舞うべき――が、自己と他者との関係性の捉え方を抽象的なものにしていると批判します。それゆえ客観性や公平性、原理の問題をケアの倫理は重視しないと言のです。しかし、同じ状況にいる他者に対して同じように振る舞えという考え方が抽象的であると拒否したとして、そこからどういう対応が考えられるのでしょうか。

 ノディングズはケアリングの動機を「ケアされるひとの福祉や、保護や、高揚に向けて方向づけられる」と言います。それゆえケアすることは、「定まった規則によってではなく、愛情と敬意によって行為すること」であり、状況によって「変化していくもの」であると。それはその通りだなぁと思います。では、愛情と敬意が持てない対象へのケアは、無理があるということでしょうか。また、愛情と敬意があっても、それだけでは適切な行為には連結しないのではないでしょうか。思いだけが空回りすることもある。ここが難しいし、問題なのではないでしょうか。何らかの客観性や公平性が必要になります。そこをどう考えていくのか。

 それはそれとして、ケアの現場に居ると、具体的場面における体力や気力がいかに重要か、それを思い知らされます。

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