宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「自由にして依存的存在としての人間」

 今週中にも梅雨入りの様子。今日は雷雨の可能性が言われてます。でも薄日もさしているので、洗濯物を干しました。

 ケアの倫理からそこでの人間観を考えてきました。一言で言えば、「自由にして依存的存在としての人間」と言えるかなと思っています。これは、ドイツ連邦議会審議会答申『人間の尊厳と遺伝子情報――現代医療の法と倫理(上)』(知泉書館、2004年)に出てくる表現ですが、ケアの倫理の根底の人間観でもあると思っています。

 かつて歴史において弱い存在へのケアは、責務ではありませんでした。古代から中世にかけてヨーロッパのみならずおそらく世界各地で、障がい児を殺すことや嬰児殺しによる産児調節は行われていたと考えられます。生産力の問題が一番大きかったのではないでしょうか。

 現代社会において、ハンス・ヨナスのいう責任という原理は、滅びゆく「他者」への責任です。完全さからほど遠い偶然に生じた対象は、存在しているというだけで「私の人格を供するように私を動かす力を持たなければならない」し、実際に「こうした現存する存在に対する責任の感情」が経験的事実として存在すると言われます。

 ケア関係において、この他者への責任は根本でありますが、同時にその存在が「自由」であることも根本なのです。それが、介護における「自立支援」という原理になっています。この「自由なる存在」という側面の難しさ。「自由にして依存的存在としての人間」というのは、まさに人間の在り様を表現していると思います。自らも含めそういう在り様をする人間をどう支援していくのか、ケアの倫理はそこのところを具体的場面において問われています。

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