齋藤孝さんが「退屈力」という言葉を作った理由の一つが、セカンドライフを豊かにするキーワードになるのではという思いがあったそうです。もちろん退屈力は、若い世代が何事かを極めていくときの重要なキーワードでもあります。ただ私は、どちらかというと、セカンドライフとの関係で興味を惹かれます。
齋藤さんの守備範囲の広さには驚かされますが、落語の味わい方など、納得できます。話自体の面白さというより、噺家の間合いと客席との笑いの掛け合いが、心の底からの笑いを引き出します。なんでこんな話でこんなに私は笑っているのだろう、でも笑いが止まらないという、私自身のわずかな寄席体験から、寄席通いというのを納得した瞬間でした。
「落語家は、観客の息の詰め開き、体の緊張弛緩というものを、自分自身の呼吸と、話の間を使って、自在にコントロールしている。逆に観客は、落語家にコントロールされることを楽しみに寄席に通う。いわば、呼吸の芸術なのだ」(『退屈力』文春新書、2008年、171頁)
また、「美」というものは人生における態度転換の大切な水先案内人になってくれる、と齋藤さんは書いています。確かに、これまで私自身、何かをやるときその実利、どう役に立つかで重い腰を上げたりしてきました。でもこの発想は、人生の後半期を生きるとき、少々気が滅入るものがあります。まだ頑張らなければならないのか、と。
芸術の世界(美術、クラシック音楽、古典落語など)の奥の深さは、そこへと突破していくための手続きがあります。ただその「一見退屈そうに見える世界に入りこむ楽しさを覚えてしまうと、人生でやることがなくてつまらないということには、もう絶対にならない。そしてこれらのすごいところは」それぞれが何かの手段になるのではなく、「それ自体が最終的な喜びをもたらしてくれるというところだ」(199頁)と、美の効用を述べています。
効用という言い方はあっていないかもしれません。この芸術、美という在り方は、アリストテレスが「幸福こそが最高善」といったことを思い起こさせます。幸福を何かの手段として求める人はいない、幸福こそが人間にとっての最終目的なのだと。ゆっくりとそのこと自体を楽しむために向き合うこと、そういうものを見つけること。それが人生の後半期を生きる肝なのかもしれません。
4月26日 ガーベラ、宿根スイトピー、 4月28日 平磯海岸から那珂湊方面を望む
虫取りなでしこ、縞はらん