宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

私たちの「不安感」の底にあるもの

 久しぶりに、研究会に参加しました。発表は二つで、ニーチェキルケゴールに関するものでした。少人数の集まりで、質疑応答の時間にはいろいろ意見交換ができて、楽しかったです。以前は、研究会はある種ノルマ的に捉えていて、新しい観点が発見できる場であり、緊張感や充実感はありましたが、楽しいという感じはありませんでした。

 ニーチェはもともと私の研究活動の出発点で、やはり、原点なのだなぁと、再確認。キルケゴールは、『死に至る病』取りあえず読みました的な門外漢ですが、彼の不安の概念をめぐる発表を聞いた帰り道、高速バスの中で、不安神経症のような病気との差はどこにあるんだろうと気になり始めました。キルケゴールは不安を罪との関係で考察していますが、原罪には、アダムの罪(楽園追放という人類の堕落の原因)、人類が生まれながらに備えている可能的罪(悪への傾向)、個人が生まれて初めて起こした第一の罪の三つがあります。第3のものによって、個々人は無垢から罪人へと変化します。

 森有正は『いかに生きるか』(講談社現代新書)の中で、罪の意識について述べています。明け方が一番良くない。忙しいと忘れているけれど、ちょっとでもゆとりがあり、ことに一晩休んで身体が休まって、疲れが取れたいちばん平衡が回復したときに、このような意識が目覚めてくると言います。だから、「罪というのは神経衰弱とか体が弱るからおこる、一種の神経症みたいなものではないのです」(181頁)と書いています。

 そしてこの罪の意識は、魂の安らぎを妨げているものであり、人間の魂に不安を与えるものだと言います。森有正のいう罪は、他の人格に対して私たちが持っている負い目や傷つけること破ることであり、これが私たちの魂を本当の苦悩に陥れると言います。

 身体や心が疲れすぎて不眠になり不安感が高まるというような状況は、睡眠導入剤精神安定剤抗不安薬(医師に処方してもらうこれらの薬は現在では依存性がかなり抑えられていると言われます)によって、寛解(全治ではないが症状が治まって薬の助けをそれほど必要としなくなっている)状態をもたらすことはできると思います。ただ、森有正が言うように、状態が良くなっているときに現れる罪の意識の不安からは、逃れることはできないのかもしれません。

 私たちの持っている根源的不安はどこから来ているのか。それがあるからこそ、不安神経症のようなものも起こってくるのかもしれません。

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