宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「みんなちがって、みんないい」は何を肯定しているのか?

 「放課後等デイサービスみときっず」を見学させてもらいました。午前中だったので学齢前の子どもさんしかいませんでしたが、障がいを持っている子どもたちの居場所の一つなのだと分かりました。 

 少し前から、「みんなちがって、みんないい」をどう捉えたらいいのか、ということを考えています。差異の肯定の言葉としてこのフレーズを受け取る、ということを前提にします。では、これはありのままの現状追認の言葉なのか。間違ったことをしていることも認めるのか。人間の社会は、その維持のためおきてを持っています。おきてには時代遅れになったものや、もともと矛盾したものがあります。おきての縛りがきつくなると、それを壊そう、超えようとする力が働きます。「みんなちがって、みんないい」には、時にそのような思いがかぶさります。画一化の圧力に押しつぶされそうになったとき、思わず出てくるうめき声のようにも聞こえます。

 「われわれ」の境界を絶えず広げていこうとするときにも、この言葉は響いてきます。でも、超越者はすべてを容認するのでしょうか。旧約の神は怒りの神でした。善悪の彼岸ではないのです。ニーチェの遊ぶ子どもとしての超人は、「みんなちがって、みんないい」の世界に生きているのかもしれません。ただし、存在者として劣悪なものは永遠回帰の中には入ってこない、とドゥルーズは解釈しています。存在そのものからふるいにかけられる。残るのは「みんなちがって、みんないい」もの。しかしそれは、人間の小さな理性のふるいにかけられて残ったものではありません。

 肯定される差異とはなんなのかが、問われる必要があります。違うこと自体がいいことなのかどうか、という問いです。他者性と差異性は同じものでないと、ハンナ・アレントは言っています。他者性のみの存在の最もわかりやすい例は結晶だと思います。有機的生命の場合は、他者性からくる多数性と同時に差異性が現れています。多数であること、違っているということは、存在することそのものです。ただし人間においてそれは唯一性となりますが、この唯一性は言論と活動を通して明らかにされ続けるものだと、アレントは言います。

 「みんなちがって、みんないい」は現状追認の言葉ではなく、それぞれが自らの唯一性を実践し表明し続ける中で、獲得され続けるものと言っているのではないでしょうか。違っていること自体がそのままいいことなのではなく、そのことをどのように周りに表明し続けるのか、周りからの承認を引き出すか、その努力の中で差異の真価が問われていくのではないでしょうか。

 

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