宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「人間の多数性」

 車を車検に出したら、えーという金額が見積もりで出てきました。廃車にして、軽に変えようかと、今、見歩き始めました。でも、疲れますね、軽のこと何にも知らないなぁと、思い知らされています。
 さて、金子みすずの『私と小鳥と鈴と』の「みんなちがって、みんないい」については、以前にも書きました。この部分は現代では、ある種、コモン・センス(共通感覚としての常識)と言えると思います。ただこれはそのままでは、お題目になってしまいます。みすずの詩の力は、この最後の行、フレーズにみずみずしさ与えていると思います。でもこの組み合わせ、どこから出て来ているのでしょうか。みすずの個人的体験やあこがれでしょうか。でも、なんか納得してしまうのは、感性の共通性にも関わるのか。この頃、米津玄師の「Lemon」をよく耳にします。私も好きなので、すぐ気が付くのかもしれませんが。この詩も、共感する人が多いのは、同時代の感性の共通性に関わるのでしょうか。
 
 人間の複数性の承認は現代の正義論(ロールズ流)の前提であり、ハンナ・アレントは『人間の条件』の中で、人間の多数性について、平等と差異を言います。等しくなければ理解しあえず、しかし違いがなければ、自分を理解してもらおうと言葉を使ったり、活動したりはしない、と書きます。この差異に関して、他者性と差異性(これは別もの)があり、それが人間では唯一性となります。
 「人間は、他者性を持っているという点で、存在する一切のものと共通しており私見:ここが鈴)、差異性を持っているという点で、生あるすべてと共通している私見:ここが小鳥)が、この他者性と差異性は、人間においては、唯一性(ユニークネス)となる。したがって、人間の多数性とは、唯一存在者の逆説的な多数性である」(287頁)
 みすずの詩は、アレントの思想とつながります。アレントはこの後の部分で、人間の唯一性は、誕生による創始という活動と差異性を現実化する言論によって明らかにされると言います。
 みすずのこの詩の内容自体が多数性の条件に沿っていると同時に、詩という言説によって、みすず自らの唯一性を示したこと。これはどこから来ているのだろう、と考えています。感性の世界に生きた金子みすずと思想家として生きたハンナ・アレントが、ある意味同じものを観ている。これは時代の感性・知の枠組みに関わるのでしょうか。

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