宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「私は何をなすべきか」:道徳的問い

  今日は節分です。明日から暦の上では春ですが、今日、すでに寒さが和らいだ一日でした。明日も予報では、かなり暖かそうですが、翌日は一転してまた冬の寒さに戻りそうです。寒さが緩むと、ちょっと身体の緊張が解けた感じで楽になります。

 「私は何をなすべきか」の非道徳的な問いの問題を考えましたが、この問いと絡み合っている道徳的問いについて考えてみます。非道徳的問いは、「何がしたいのか」という問いですが、それは当然道徳的許容範囲の中で動いています。あるいは道徳的インセンティブが、生き方や職業選択に結びつくことがあります。例えば、正義感の強さが法を守る仕事を目指させたり、正義と思いやりが結びついて福祉の仕事を目指させるというように。

 倫理とは、「人が何をなすべきか」「どう生きるべきか」「人生において何が価値あるものか」などに関わります。「よく生きるとはどういうことか」に関わるものと言っていいと思います。

 道徳というのは、倫理的に生きるための「特殊な義務の概念であり、その義務概念に付与される重要性」(バーナード・ウィリアムズ『生き方について哲学は何が言えるか』産業図書、288頁)と取りあえず言っておきます。そして道徳は、自生的に出てきたもので、文化や社会や時代によって異なります。道徳が一つではないからと言って、個人に特殊なものではありません。個人が引き受けているものは、カントが言うところの格率、モットーと言っていいでしょう。道徳は、多くの人が生きるにあたって持っている、義務についての言葉やそういう言葉の一部分です。

 カントで極まった倫理の厳格主義。現代では人間はもっと中間地帯で生きていると考えられています。身体が属する感性界と理性が属する叡智界に、ともに属して生きる人間の倫理は叡智界から来る、という考え方がカント。感性界の中に倫理を考えたのが、ニーチェ。『ケアリング』の著者ネル・ノディングズもどちらかと言うと、感性界の中に倫理を考えたと言えます。現代の英米圏の道徳哲学者は、啓蒙主義時代の理想主義的倫理観から見ると、もっと低空飛行の中に価値ある生の問題の選択肢を見ています。

 「価値ある人間の生のほとんどすべては、道徳が私たちに提起する極端な選択肢の中間に位置している」(バーナード・ウィリアムズ、321頁

 しかし道徳が掲げた理想主義が意味を持たなかったわけではありません。

 「道徳が掲げる理想は、世界にある程度の正義を実現し、権力使用と社会的な機会の操作によって具体的な形で不運を埋め合わせるのに、一定の役割を果たしてきた」(同上、323頁

 道徳の発達段階論を提唱したコールバーグは、理想主義的道徳観に立った道徳的認識の発達段階論を出しました。ギリガンは関係性の中での道徳的成熟を提示しました。正義という基準が、社会の中の不公平を埋め合わせるのに一定の役割を果たしてきた、というのは事実でしょう。では配慮や思いやりというケアは、どういう役割をはたしてきたのでしょうか。

 少なくとも、道徳はその人間の「自我」の核と関わっているということは言えると思います。「私とはどういう人間か」とは、「どういう人間でありたい」と思って生きてきたかということでもあります。人間は未完の存在ですから、死ぬまで「どういう人間でありたいか」と、自分のあり様に思いをかけながら生きるのだと思います。そして死んでからでもその人への評価は変わります。評価もまた未完ということでしょう。

 ローティはフロイトを取り上げながら「自己の偶然性」を言いました。ローティによればフロイトの主張とは「人間の生はすべて洗練された特異なファンタジーを仕上げることだ」(『偶然性・アイロニー・連帯』89頁)というもの。フロイトが試みたことは、合理性を、ある偶然を他の偶然に適合させる機制(メカニズム)として論じることだったというのです。合理性より、無意識な戦略には、私たちが適応する際のモードの選択肢がたくさんある。そしてフロイトによって、「『理性』と呼ばれる中心的な能力、つまり中心的自己などないのだ、という可能性を真剣に受けとめること」(71頁)が促されたというのです。

 スーザン・ヘックマンはこのような「自己の偶然性」の概念を批判します。彼女は信念の偶然性を宣言しながら、その信念のために死ぬ覚悟ができるかと問うわけです。しかし、偶然性とは蓋然性ではないし、必然性の欠如と必ずしも言えないと思います。いわゆる因果関係の欠如ではあっても。必然性と偶然性を対立概念として対置しているのはカントの様相のカテゴリーですが、そもそもローティはカント的発想を批判している。

 あるものを偶然であるということと、それに命をかけることは矛盾しない気がします。ある人との出会いは(人間にとって)偶然ですが、その出会いに命をかけることはあります。ヘックマンは、批判し再記述に次ぐ再記述の対象に命はかけない、自分なら、と主張します。信念が偶然であるということと、それに命をかけることは矛盾しないと思います。ただ、もしかしたらその信念は間違いかもしれないという疑念を持ちながら、あるいはその信念批判が可能であることを自ら検証しながら、その信念に殉じると言うことはあり得るのでしょうか。そこのところが問われます。

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