宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

現実と空想をどう区別しているのか

 昨日は晴れていましたが、風が冷たく、洗濯物は乾いても冷たいので、室内で二度干ししました。師走の寒さを感じる一日でした。夕方近く、眼科へ行って薬をもらって来ましたが、私が行ったとき、珍しく患者さんは一人もいませんでした。秋の日ではなく、冬の日はつるべ落とし。あっという間に暗くなりました。今日も、晴れてはいましたが、寒かったです。

 さて、「私」という主観性の構造はどう捉えることが出来るのか。「私」という感覚はどこから来ているのか。外の世界や他者と「私」はどういう関係にあるのか。まず外界に意味付与するという超越論的意識(主観性)。私たちは自分の意識の外に出ることはできません。その意識を通して外部を捉えています。この外部の捉え方をとことん反省したときに、直接的経験としての感覚がもっとも根源的なものになります。この直接的経験の世界、主観性こそが客観性の前提になります。

 この直接経験の領域である超越論的主観性の分析を通して、フッサールは自我や外界、他者を根拠づけようとしました。ちょっとここで、この超越とか超越論的、という言葉に触れておきます。超越とは意識の外を意味します。外に何かが存在することを、超越と言っています。意識の表象の外に何かが存在するとは、存在が表象を超越しているということです。超越論的は、超越を学問的に扱うときの言葉です。ただしこの超越(意識の外)は、意識の内部で「構成」されます。私たちは、常識的にはこのことを忘れています。外部は私たちの意識からの働きかけと無関係に成立していると、ふつうは考えています。

 私たちが客観的外界を「構成」されたものと考えないのは、私たちの空想の世界と区別したいからです。しかし私たちは、自分の意識・主観から外に出ることはできない。いわゆる客観的外部・対象は、主観の「構成」したものなのです。この「構成」の構造を明らかにしていくのが現象学と言えます。私たちがものを捉える構造を谷徹さんは次のように表現します。

 「『現出』の感覚・体験を突破して、その向こうに『現出者』を知覚・経験している」(『これが現象学だ』講談社現代新書、58頁

 私たちの主観的な心的体験を、茂木健一郎さんはクオリア(質感)という立場からとらえます。そしてこのクオリアには、大きく分けて二つあると言います。感覚的クオリアと志向的クオリアです。感覚的クオリアとは色や香りや音色、肌触り、甘さや辛さなどが属します。言語化される以前の原始的質感で、末端から中枢に向かうニューロンの活動に対応しています。

 たとえば林檎の感覚的クオリアを「これは林檎だ」と認識するときに心の中に立ち上がっている質感が、志向的クオリアです。火の鳥とか来年の元旦は晴れるだろう、というような空想とか信念も志向的クオリアです。志向的クオリアとは、中枢から末端に向かうニューロンの活動に対応します。感覚的クオリアは必ず志向的クオリアと対をなしますが、志向的クオリアは単独でも立ち上がります。それが後者の例です。

 私たちは外界は存在しないかもしれない、夢かもしれないと考える自由を持っています。でも、だからと言ってそれを確かめるために、例えば走っている車の前に飛び出したりはしません。これはなぜなのか。茂木さんは次のように言います。

 「私たちは、今、目の前に実際にあるものを見る時にのみ、それを『赤い色』や『つやつやした光沢』といった感覚的クオリアとともに表象するのである。それ以外は、志向的クオリアが単独で立ち上がっているということになる。別の言い方をすれば、脳は『現在』『自分の外』にあるもののみが、感覚的クオリアを伴って表象されるような、そのようなニューロンのネットワークのメカニズムを持っているということになる」(『心を生み出す脳のシステム』NHKブックス、55頁

 志向的クオリアは、感覚を知覚という客観的現象に変えるものと言っていいのかもしれません。ピエール・フルキエは「感覚印象は主観的現象」であるが、「知覚は、それがある対象に到達するという意味で、客観的現象である」(『哲学講義Ⅰ』)と言っています。

 茂木さんは、感じる主体としての「私」を志向的クオリアとの関係で捉えていますが、触覚を通して身体を媒体に捉えるとどうなるか、次はこれを考えてみます。 

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