宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「私」は自明か?

 ケアにおける自立支援を考えるとき、他者の自己決定をどう引き出し援助するかという問題と向き合わざるを得ないことになります。共に考えるという行為は、単純に相手の立場に立つということではありません。相手の立場に立って考えるは、カントの常識の三要件の一つでした。

 1)自分自身で考えること、2)自分自身を他者の立場に置いて考えること、3)常に自分自身と一致して〔自己矛盾のないように〕考えること(『判断力批判(上)』岩波文庫、233頁)

 ただしこれは、あくまでも「私」が主体になってよりよく考える考え方ということです。ここで言っている「共に考える」主体は「私」ではなく、「私たち」と言ったらいいでしょうか。「私」と「私たち」とはどういう関係になっているのでしょう。まずは「私」の自明性の問題から考えてみます。

 さて、「私」の自明性は、本当に自明なのだろうか、という疑義は、デカルトの「われ思う」以来、繰り返し提示されてきました。20世紀に入り、ヴィトゲンシュタインは、『論考』の中で、「思考し表象する主体は存在しない」(5・631)と書きます。「主体は世界には属さない。それは世界の限界である」(5・632)、そして「世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか」(5・633)と畳みかけ、よく知られている眼と視野の図を書いて見せます。私たちは、デカルトの「われ思う、ゆえにわれ有り」を、世界を対象化する特権的眼差しとしてイメージしますが、ヴィトゲンシュタインはそれを拒否します。視野にはどこを探しても眼は属していない、と。視野の側からは眼の存在は推論されないのです。

 フッサールは、デカルトの方法的懐疑と相同のやり方とも言える自然的見方からエポケーを介して、超越論的主観を取り出しました。私たちは、例えば、外界にパソコンがあると普通に思っています。このような素朴実在論は私たちの常識的捉え方ですが、フッサールはこのような捉え方にストップをかけます。そしてそれを意識の作用としてとらえ直します。これが、フッサールの言う「超越論的還元」であり、そこで取り出されたのが、外界に意味付与している「超越論的意識」なのです。現象学はこの世界を構成する意識の働きを捉え直す試みです。フッサールはこの意識作用の極に「自我点」を想定しますが、しかしこれは「純粋自我」と呼ばれるようなもので、現実には検証できません。経験を可能にする条件として考えられているだけです。

 フッサールは『イデーン』第2巻の中で、身体の役割について考察しています。

 「われわれの見ているすべての物は、触りうるものであり、そのようなものとして身体への直接的関係を示しているが、ただしそれは物の可視性によってではない。単に眼だけをもった主観(ein bloβ augenhaftes Subjekt)は、決して現出する身体をもつことはできないだろう。……人は、単に見るだけの人(der nur Sehende)が自分の身体を見る、とは言わないであろう」

 ここではヴィトゲンシュタインの視野と眼に関する考察と同じような考察がなされています。見るという行為だけからは、それが自分のものという結びつけは生じない。自分の身体という捉え方は、触覚から生じると言われます。他のものとの距離感も、身体を介し、特にその触覚の働きを通して捉えられのです。

 ヴィトゲンシュタインフッサールも「思う」ことの存在からは「自我」の存在を導き出せないと結論しました。そこからヴィトゲンシュタインはそれゆえ「自我」など存在しないと主張し、フッサールはどうやって「自我」の存在を根拠づけるか思索します。 

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