宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

認知症の家族とともに

 今日は結構お天気がよかったです。月曜日からは寒くなるようですが。

 『認知症の人を愛すること』(ポーリン・ボス著)を読み始めました。治療法のない病気や状態と共存しなければならないなら、見方や考え方を変えればいい、という視点から認知症の人と共に生きる家族に向けて書かれています。あいまいな喪失にどう向き合ったらいいのかと。その人はまだ居るのに、半分もう居ないのです。そのあいまいな喪失の辛さとどう向き合っていったらいいのか、という切り口です。

 「私が誰なのかを、結婚相手がわからなくなっても、その人と結婚しているといえるのだろうか」「子どもたちの父であることを、夫がわからなくなっても、夫は父親であるといえるのだろうか」「私のほうが父や母の親の役割を担うようになっても、私はまだ娘だといえるのだろうか」(4頁)

 この問いは分かります。恐らく利用者さんのご家族の思いでもあるのだろうと感じました。ただ、私たちはこういう風に、ある種「哲学的」に言語化することを避ける気風があると思います。あいまいなままに、日常的な愚痴のレベルに留める。突き詰めないままに受け止めていく。それは必ずしも悪いわけではないと思います。白黒つけることが必ずしもいいとはしない作法を持つのが、私たちの文化だという気がします。ただ、それが新しい事態であるとき、あいまいなままで受け止める方式がまだ確立されていないとき、言語化の努力は必要なのではないかと思っています。映像や経験談として認知症状を示す家族との関わりは描かれていますし、対応のポイントなどがハウ・ツーものとしては結構出版されています。

 Kさんは自分の状態に苛立っています。「俺はどうしたらいいんだ」とことあるごとに聞いてきます。繰り返し、繰り返し。そこには日常生活をどう処理していったらいいのか、分からなくなっている不安があると思います。一種横柄にさえ感じさせられるその対応の陰に、彼の不安や人柄が隠れています。

 苛立ちをぶつけた後に、少し落ち着いてくると、スタッフが「嫌われてしまったのかな。悲しいです」というような表現をすると、「そんなことない。大好きだよ」と返してくれます。「ここのスタッフはみんな優しいから好きだよ」と言ってくれたりもします。でも、何かに捉われてしまうとその状況を何とか解決しようと、苛立ちます。

 私たちは家族ではありませんから喪失の悲しみはありません。むしろ、付き合う時間が長くなってくると、今の混乱している事態から、かつての姿が垣間見えて来て、哀しみと同時にある種の感動を覚えたりします。しかし家族は、喪ったものの大きさに圧倒されてしまうのでしょう。そこをどう超えていくのか。経験談を理論的に言語化していく方向も、必要なのだと思います。

h-miya@concerto.plala.or.jp