宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

心身二元論の効用

 どうも夏の疲れが出ているのか、やる気が出てきません。体調が気分にも影響している感じです。このこころとからだの関係は、本当のところどうなっているのでしょうか。

 こころとからだが別の原理で動いているというのは、ごく普通に捉えられます。ただし互いに影響を与え合っていることも。これを完全に別実体に切り離したのは、デカルトです。

 こころとからだは、アリストテレスにおいても概念上、「形相と質料」として区別されています。しかし存在としては分離されず、一つの実体をなすと考えられていました。デカルトにおいて、精神と物体は別々に独立して存在する実体であるという二元論が確立します。このような自我(意識)の概念を全面に押し出して、原理として据えてゆくという近代以降の立場とは、真理の基準が「明晰判明な」認識になったことを意味します。つまり自分の意識にとって、合理的に知られるものだけを存在すると認めよう、ということです。

 まあ、迷信や神的権威への盲従などを克服していくには、このような理性を中心に据えていく必要はあったと思います。そしてどうやって存在するものを捉えるかを考えていくとき、理性の能力が重視された。

「物体そのものも本来は感覚によって、あるいは想像する能力によって知覚されるのではなく、ひとり悟性によってのみ知覚せられる」(『省察』「省察二」)。

 しかしまた、デカルト自身は神を否定はしていませんでした。彼が自然学の諸原理として認めるのは、数学における原理だけですが、しかしそれは自然の側から検証されなければならない、と言います。なぜなら、人間の側から立てられた理論が、外的自然に必然的に妥当するとなると、神の意志に必然を課すことになってしまうからです。ここに実験の重要性が出てきます。

 デカルトは、界の物体の物質が同一であること、それらが分割され得ること、それらがさまざまに運動し、何らかの円運動をしていること、また宇宙においては運動量が一定であること等を主張します。しかし、それらの部分の大きさや運動の速さ等は神によって無数に多様な仕方で配置され得ました。それゆえ「どれを神が他のものよりも選ばれたかということは、ただ経験だけが教えてくれるべきものである」(『哲学の原理』第三部)と、実験の意義を論じました。

 デカルトの発想を追っていると、なんか気分がすっきりしてきます。

 デカルト自身は、かなり常識人的に行動していました。日常的行動における常識を重んじていました。社会が許容するものをとりあえずは認めます。しかし、考えることは私たちを「自分」というものへ纏め上げる力があります。自分自身として、世界から身を引く「自由」。これに対して感じることは、共感することへつながり、むしろ「自分」が拡散していきます。共同体性を強化・維持するにはこの感情的な連帯感をいかにかもし出すかが、ポイントになりますが、「自分」を失うことにもなります。

 「私であること」の徹底による開放感。心身二元論にはそういう効果がある気がします。気分に振り回されないようにするには、時々、こういう思考の世界に入る必要性があるなぁと思っています。

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   お彼岸のお中日だったので、お墓参りに行って、いつも行かない奥の方にも行ってみました。

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