宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

寂しさと孤独

 今日は夕方、雷雨になりました。雨が小降りになっても、稲妻が空を走って、何度も垂直に落ちていました。凄い光景でした。車を走らせながら、映像を見ているようでした。8月が終わると、やはり涼しくなるようです。9月はまだまだ日中は暑いでしょうが、あの身の置き所の無い暑さとは違ってくることを期待しています。

 さて、年を取るということは寂しさを抱きしめているような、そういう感覚に気持ちが負けていくことなのかもしれません。人間は、みんな寂しいものだと言います。年を取っていくと孤独になっていくので、寂しいのでしょうか。孤独は他の人との接触や関係性がない状態を一般的には言います。

 三木清は『人生論ノート』の中で、群衆の中の孤独を言っています。

 「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の『間』にあるのである」

 しかし、孤独は味わいを持っているとも言われます。一人になりたいので街を歩く、ということもあると思います。周りに人がいても、そこに関係性がなければ、孤独です。また、自然の中での孤独は、しみじみと心が癒されることもあります。

 寂しさという感情は、単に孤独だからというのではない気がします。一人暮らしの利用者さんが、「一人がいいの」と言います。この方はマイペースで、自分のやりたいことだけをやります。寂しさを感じることもあると思うのですが、そういう感情を気にしていない。

 別の利用者さんは家族と暮らしながら、寂しいようです。むしろ年と共に、家族の中で孤独になっていくのかもしれません。他者の気持ちが自分に向いて欲しいと思うようですが、そのやり方が分からなくなっています。その結果、自分中心の表現になってしまって、周りが引いてしまう。そこでさらに強烈に自己表現して、注意を喚起しようとする。負のスパイラルに陥ってしまいます。

 私たちは寂しいので人とつながろうとするわけですが、このコミュニケーションの難しさはみんな感じています。仏教の教えに「少欲知足」があります。欲張らずに、現実を受け入れることですが、これが難しい。むしろ現代は、そういう姿勢を<消極的>と捉えて、もっと高みを目指せと叱咤激励します。欲張らないというのは、欲がないことではありません。アリストテレスの中庸の徳の節制を意味します。欲を感じない(不感症)ことも欲がありすぎる(多情)ことも、生き方としては望ましくないのです。

 寂しさに負けないというのは、寂しさを知らないことでもなければ、寂しさに溺れてしまうことでもないのでしょう。寂しさを知らないと、他人とコミュニケーションを取ろうと思わないでしょう。寂しさに溺れるとやみくもに他人の気を引こうとしてしまいます。

 寂しさも孤独もそれなりの味わいを持つ。そう思えるのは、心が健康であるということなのでしょう。そういう状態を保ちたいと思います。そのためには、自分に囚われすぎないこと、つまり、集中できる何かを持ち続けることが有効なのかもしれません。 

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