宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

感情的問題への対処法

 朝晩は涼しくなりましたが、日中はまだ暑いです。岐阜市の病院で、エアコンが故障して、80代の入院患者が5人(だったと思います)亡くなったというニュースが、昨日は盛んに取り上げられていました。医療の現場で、考えられないような事態です。

 夏にクーラーは熱中症対策に欠かせないものになりましたが、高齢者にとっての適切な室温調節には難しいものがあります。高齢者に限らず、クーラーの適温は人によって分かれます。体調や感覚の差が影響しますが、デイの利用者さんも、クーラーが寒いという人と丁度いいという人に分かれます。風が直接噴き出さないような工夫はしているのですが、それでも感覚や体調に違いがあります。

 上に羽織るものを持ってくる方がほとんどですが、一人暮らしの場合、配慮してくれる家族がいないと「上に羽織るものをお持ちくださいね」と伝え、手帳に書いても、「忘れた」ということになります。席を変えたりしても、やはり寒いということになって、クーラーの温度調節をしますが、全員に快適な温度に保つのは難しいです。

 ところで、人が集まって過ごしていると、当然ながら、いろいろな問題が出てきます。自分のペースを変えられない人や自分のやりたいことは他の人に譲らない人など、だんだん周りが苛立ってきます。スタッフが間に入りながら、調整していきますが、苛立っている人の表現がきつくなっていくのが分かります。感情的な部分は最後まで残ると言われますが、その感情をコントロールする理性的部分は弱くなっていきます。

 好き・嫌いは人間関係において自然に発生します。ただ関係性を保つためには、その感情をわきに置いて、相手をありのままに理解する努力が必要、ということはよく言われますし、その通りだと思います。相手をありのままに理解する、これは難しいです。ある種の訓練が必要ですし、その人の性格によっても容易度が異なってきます。衝動性や情動性が強いと、好き・嫌いの判断のフィルターが明確でかつ強く、自分の先入見(吟味されていない判断)から距離をとるのが難しい。

 この距離をとる能力をメルロ=ポンティは自由の能力と言っていましたが、批判的能力のことでもあります。批判というと他人の意見や行動に向けられるものという印象が強いようですが、私はまずは自分の先入見を吟味することと捉えています。先入見から自分を自由にするのが批判能力だと思います。

 なぜこの人は、こういうことを言ったりしたりするのか、自分の心を逆なでする他者の言動に振り回されないためには、他者を理解する必要があり、そのためにはまずは判断停止して観察することが必要です。なかなか難しいのですが、でもそれを続けていると、何かの瞬間に、「あ、そういうことか」という理解が生じます。他者理解であると同時に自己理解の瞬間です。もちろん、また次の問題が生じてきますが、結局そういうことの繰り返しでしか、感情的問題への対処はできないのでしょう。

 では、認知症状を呈している人たちが、同じように認知症状を呈している人との関係の中で感情的問題を抱えているとき、援助者側はどう対処していったらいいのでしょうか。「あなたの気持ちはわかりますよ。許してあげてくださいね」というような意味合いのことを言って「そうね、分かりました」と言ってくれても、すぐ忘れます。また、問題的に振る舞ってしまう人にも、その都度、「ほかの人にも譲ってあげて下さいね」とか声掛けしますが、こちらも「わかったよ」と言ってくれてもすぐ忘れます。「そんなことないよ、ちゃんとやっているよ」という人もいます。

 「そんなことないよ」と抵抗する人も、「わかったよ」と言ってすぐ忘れる人も、ともに理性的ではありませんが、その違いはもともとの性格の違いなのでしょうか。とりあえず、援助者側が、繰り返し、それぞれの理性の部分を肩代わりする対応をしていくしかないのでしょう。

h-miya@concerto.plala.or.jp