宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

受精卵診断

 今日は盆の入りです。夕方に迎え火を焚き、16日の夕方に送り火を焚きます。そういえば、まだ父方の祖母が生きていたころ、そういうことやっていました。今は、お墓参りくらいでしょうか。死んだ人が帰ってくる日に、生きていること、健常者であることはどういう意味を持つのだろうと考えています。シュタイナー教育創始者ルドルフ・シュタイナーは、障がい者のほうが霊的には上位にある、というようなことを言っていたと思います。

 生命倫理の授業で、中絶や出生前診断着床前診断受精卵診断)の問題を考えました。柳澤桂子さんが2005年に朝日新聞に連載していた「宇宙の底で」の中から、二つの記事を選んで、学生さんに考えてもらいました。そのうちの一つが「弱いものを守る社会を」(2005年2月8日)です。

 これは受精卵診断の話を扱っています。妊娠中絶でも問題になる、胚はいつから人間なのか、という問いに対し、柳澤さんは卵と精子の核が融合したときから人間だと思うと書いています。ここで取り上げられている受精卵診断は、重いデェシェンヌ型筋ジストロフィーの子どもを出産した夫婦が、第2子の妊娠時に診断を希望し、結果、中絶したというものです。柳澤さんは受精卵診断自体に問題を感じています。受精卵診断をするのは、異常な胚を排斥しようという気持ちがあるからではないか、異常な胚を捨てることは殺人には当たらないのか、と問題を提起しています。

 遺伝子に突然変異はつきもので、人類という集団の中にはかならずある頻度で、障害や病気を持った子どもが生まれてくる。その遺伝子をだれが受け取るのかはわからない。たまたま受け取らなかった健常者は、その幸運に感謝して、病気の遺伝子を受け取った人にできるだけのことをするのが義務であろう、障害を持つものを排除する社会は、人々が自己中心的で住みにくい社会であろう、と結んでいます。

 柳澤さんの主張には納得しつつも、やはり親は健常者を望んで、特に自分たちに重い病気の遺伝子が受け継がれていると分かった場合、受精卵診断を受けるだろうなあ、と思っていました。しかし、理想論ではあっても、やはり受精卵診断による異常児の排除は、踏み込んではいけない領域への越境なのかなと思うようになりました。障害は生まれてからも生じます。丸ごと命を受け入れていく社会が、安心感を与えてくれる社会だと思います。

 今現在生きている人間の基準で、命の在り方に優劣をつけてはいけない。それは多くの人が感じることだと思います。生まれることのできない命は、着床しても自然に流産するとも言われます。生れ出てきた命には、それが短命であっても、受け入れた側ができるかぎりの対応をしなければならないのでしょう。それを感受しながらも、重篤な病気を持った胚の排除もやむを得ないと考えてしまうのは、それだけ社会が厳しい状況にあるということなのでしょうか。

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