宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

遺伝子技術の進歩

 今日はお天気が崩れるという予報でしたが、今、雷が鳴っています。雨もぱらつき始めたので、窓を閉め回りました。準備万端というときに限って、大したことなく終わるのですが。大したことなく通り過ぎたようです。

 さて、遺伝子技術の進歩について。メンデルの遺伝法則(1865年)とその後の再発見(1900年)以降、仮想的な遺伝因子が設定されてきました。1910年に始まるキイロショウジョウバエ(理科で出てきました)の研究により、遺伝子が染色体上に線状に配列して連鎖群を形成することがわかり、仮想的存在だった遺伝子が物質的基礎を持つようになります。1940年代からは遺伝学が遺伝子解明へ進み、遺伝子技術へと大きな展開を見せていきます。1953年には、J・ワトソンとF・クリックによって提唱されたDNAの2重らせんモデルへと結実。分子生物学の発展とそれに基づく遺伝子技術が、20世紀後半には医療の分野で大きな意味を持つようになりました。そして、現在では、人の老化と死に関わる「テロメア」というDNAが発見され、細胞の老化を引き起こすメカニズムの解明がされつつあります。人が死ななくなったら、どうなるのでしょうか。人が溢れて困るよ、といった人がいます。

 日本人の死への感情は、恐れであるより悲しみであり、死にある種の安らぎを見い出すと言われます。仏教が入ってきて、地獄の思想との関係で死への恐怖も出てきますが、結局は阿弥陀仏信仰における絶対慈悲の教えのようなものの方が受け入れられました。

 近代日本人の死への特徴を加藤周一さんは「宇宙のなかへ『入る』またはそこへ『帰る』感情は多くの日本人に共通だろうと想像される」と言います。この感覚は分かる気がします。90歳を過ぎた方たちは、「早くお迎えが来ないか」とよく言います。確かに、死に怖さを感じていないのかもしれません。「怖くないんですか」と聞いてみたいと思いつつ、何となく今まで聞けずに来ました。でも、私もその年になったら、怖さを感じないかなとも思います。

 逆にずっと生き続けるという方が恐怖かな。

 ハンナ・アレントは『人間の条件』「第5章 活動」を「わたしたちのもとに子供が生まれた」で締めくくっています。これは、世界に対する信仰と希望を表現する福音書の「福音」を告げる言葉です。アレントは、言論と活動が人間を人間たらしめるものと考えています。これによって私たちは自分自身を世界に挿入し、この挿入は第二の誕生に似ていると言います。

 「活動する」というのは一般的に「創始する」、「始める」という意味です。人間はその誕生によって、「始まり」、新参者、創始者となるので、活動へと促されるのです。そして人間は一人ひとりが唯一な存在なので、人間が一人誕生するごとに、何か新しいユニークなものが世界に持ち込まれます。

 言論は差異性、多数性という人間の条件の現実化です。語ることなく行為はなされ得ますが、活動を活動にするのは、活動者が自らの行為の意味付けを言葉を通して知らせ、自分が誰であるかを積極的に知らせるときです。

 この人間事象の世界は放っておくと「自然に」破滅します。それを救うのが人間の出生という事実であり、活動の能力も存在論的にはこの出生にもとづいているというのです。

 テロメアの研究が進んで、人間事象の世界が「自然に」破滅しなくなったらどうなるのでしょうか。新しい人びとの誕生、新しい始まりが歓迎されなくなったら。人間事象に与えられる信仰と希望は、人間の出生という事実と結びついていると言われます。でも古代ギリシア人は、キリスト教的世界の、信仰と希望という人間存在の二つの本質特徴を無視しました。彼らは信仰を低く評価し、希望をパンドラの箱の幻想悪の一つに過ぎないとしたそうです。

 遺伝子技術の進歩が描く未来は、「日のもとに新しきことなし」(『旧約聖書』「伝道の書」)を覆しつつ、でも新しいことを受け入れない世界になるのでしょうか。希望はないかもしれません。

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