宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

八幡宮のあじさい祭

 梅雨の時期にも、晴れる日があります。丁度、13日はそんな一日でした。水戸八幡宮あじさい祭に行って来ましたが、「今が盛りです」とボランティアの方が言っていました。今年は花が早いようです。あじさいにもいろいろあるんですね。

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             6月13日水戸八幡宮の紫陽花 

 神社やお寺は、空気がすがすがしく感じられます。建てられている場所や建物の配置、植林の仕方などが影響しているのでしょうか。神社は日本の神道の信仰に基づく施設ですが、日本では仏教との混淆が浸透していて、神仏習合という宗教現象が一般的でした。これに対して中世から、神仏分離の動きが時折思い出されたように高まりましたが、歴史の授業で思い出すのは、明治維新期の廃仏毀釈です。

 光圀以降の水戸学では神道を尊重し、仏教が軽視されました。明治維新政府の最初期の宗教政策に、藤田東湖・会沢正志斎ら後期水戸学が深く影響していたようです。明治維新政府の神仏分離令や大教宣布は、仏教と神道の分離が目的で、仏教を排斥しようとしたわけではないと言われていますが、廃仏毀釈運動という破壊活動を引き起こしてしまいました。アフガニスタンタリバンが爆破したバーミヤンの石仏を思い出してしまいます。

 バーミヤンの遺跡群は、アフガニスタンの首都カブールから北西230キロの山岳地帯に位置するバーミヤン渓谷にあります。仏教文化が繁栄した時代の様子を伝える文化的景観を持ち、2003年にユネスコ世界遺産に登録されています。登録に先んじて、2001年3月にタリバンによって、イスラム偶像崇拝禁止の規定に違反しているとして、磨崖仏が破壊されました。あの時のニュースはかなり衝撃的だったことを覚えています。

 日本の廃仏毀釈運動は、それ以上でした。日本中を、破壊運動が吹き荒れたという感じだったでしょう。明治期の廃仏毀釈運動に影響を与えた水戸藩神仏分離である寺社改革は、1660年代初めころから始まったようです。水戸八幡宮がある八幡町ももとは寺院だったそうです。そこにあったいくつかのお寺は破却され、土地は宅地化され、お寺は各地に移されました。

 現在、私たちはあまり神社とお寺を分けてはいないのが実情のようですが。

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