宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

意識は何ものかについての意識である

 デカルトは心の領域を発明した、というのはローティの表現です。対象認識に先立つ内在的領域の発明or発見は、確かに画期的なことです。ただ、内閉してしまったことで問題が起きてしまいました。つまり、私と世界、私と他者、私と身体が分断されてしまいました。私が私の意識の中から出られないなら、どうして世界や他者や身体を確かなものということが出来るのでしょうか。そこでフッサールが取ったのが、とことん意識を解明するということでした。意識こそが、世界や他者や身体を確証するようなあり様をしているのではないか、ということです。 

 そしてそこから出てきたのが、意識の志向性という意識の特性でした。どういうことか。志向性とは、意識が様々な現れという感覚体験を突破して、その現れの元のものを知覚経験するという意識の働きのことを言っています。

 メルロ=ポンティは『知覚の現象学』で、斜めから見る正方形が菱形として知覚されないのは、正面向きの正方形を思い出すからではないと言います。「斜めに提示された菱形という現われが、そのまま前向きに提示された正方形という現れに等しいから」なのです。私たちの直接経験では、例えば、机の上面を平行四辺形や台形に感覚することを突破して、長方形の上面を知覚しています。多様な現れと元の現出者は一体なのです。私たちはこれ以上根源に遡ることはできません。

 現れるものと現れは、切り離すことはできません。意識するとは常に、何かを意識することであり、これ以上に何かを確証することはできません。現れるものの現れ方はさまざまですが、現れ方から切り離された現れるものというのは存在しません。現れるものと現れの間にはずれがあるので、見間違いや聞き間違いが生じます。しかし、それを修正していくのも、感覚・知覚という意識経験なのです。

 廣松渉は思い違いの連続であっても、現実には、「誤解だったと思い知らされることがなくなる」程度までは修正されうるし、現にそうして「相互理解」は進捗すると言います。私たちの感覚や知覚は、確かにそのような構造を持っていると思います。 

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