宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

承認欲求と自己実現

 今日で4月も終わりです。母が家に戻って来てから、急速に元気になりました。病院にいたときやショートステイにいたときには、何となく気力が無くなっている感じで、大丈夫だろうかと思っていました。それが家に戻って来て、2、3日で驚くほどの変貌がありました。身に付いた動きや分かっている場での動きは、本人に自信を取り戻させるのかもしれません。

 それでも、頭が混乱している、迷惑をかけているだけと盛んに訴えます。それに対しては、時間がかかるけどちゃんと戻るから、と答えています。以前と全く同じでなくても、人間生きている限り成長していると思っているからです。利用者さんと1年以上付き合っていると、症状の進む方もいますが、以前よりクリアになり、体も元気になっている方もいます。年齢やそれまでの状態、発症の原因の違いや本人の性格など、いろいろあるのでしょう。

 ところで、ケアの根底にある人間観は近代主義的人間観とどう異なるのでしょうか。近代主義的人間観では、人間を基本的に能動的・主体的存在と捉えます。近代主義的人間観では、その最終目的を「自己実現」に置くと言っていいと思います。私自身、長くこの「自己実現」にとり付かれていた気がします。今もそうかもしれません。

 これに対し、人間の相互ケアが提示しているのは、私たちが傷つきやすいという自他の脆弱さを引き受けて、互いの自由を支え合いながら生きているという側面ではないでしょうか。バーリンは「二つの自由概念」の中で、多くの人間が本当に求めているのは際限のない自由ではなく、承認されたいという欲求である、というようなことを述べていました。つまり切り離された自由ではない、大切にされているという実感である、ということです。大切にされているという感覚は、認められている、自分の「居場所がある」という感覚ではないでしょうか。それは何ができるからとかではなく。

 また、互いの自由を支えあうというのは、人それぞれの、踏み込んではならない領域を認め合うということだと考えます。ただし、踏み込んでいけない相手の領域を認めることは、相手との間に無関心な距離を作ることは意味しません。理念として相手の領域を認める、ということはある意味たやすい部分があります。それは距離を置けばいい、とも言えるので。ただ人が本当に欲しいのは、自分への関心なのでしょう。しかしそれがお節介になるのは嫌なのです。なんと欲深いのでしょうね。でも分かる気はします。本当に欲しいのは、自分を分かって認めてくれること、でもその大変さも分かるので、お節介されるくらいなら、そこそこのところで諦める。

 さてケアには、困難や負担(ケアする側の恣意性や自己犠牲)という否定的側面と、思いやり、熱意という肯定的側面があります。そしてケアの射程は、私的心情的人間関係を超えて、社会的公共的場面にまで広がっています。社会的公共的場面におけるケアを統括するのは、単に個人的心情的なものではなく、政治的な側面を持ちます。このケアの持つ両側面とその射程とどう向き合えば、介護にむなしさや疲労感を感じるだけでなく、誇りと喜びを見出せる社会への道を描けるのでしょうか。あるいは介護される側が、一方的に負い目を感じるのでは無いようなケア関係は、どうやったら築けるのでしょうか。

 ケアを認識論・存在論の側面からだけでなく、施設介護や家族介護の現場からの声を拾うことで、自らの行く末を見据えたいという思いがあります。人は自己実現を本当に求めているのだろうか、むしろ承認欲求の方が強いのではないか。あるいはこの両方を車の両輪のように必要としているのかもしれません。

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