宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

言語論的転回2)日常言語の使用と間違った考え

 母の入院で、まとまってものを考える時間がありませんでした。母はショートステイに移動してかなり落ち着いてきたので、私もまた、以前考えていたことに少しずつ戻ることにします。

 認識論的転回から言語論的転回への変化があって、「何を人間は知り得るか」という認識論的転回の課題は、言語論的転回へと引き継がれたことについて以前に書きました。その続きを考えていきたいと思います。まず少し振り返って、観念は自分の心に直接浮かんだものです。それを考えたり、人に伝えるとき、言葉を使いますが、認識論的転回では観念そのものを吟味しました。しかし何かを心に受け取っている状態と、それが観念になる状態は別ものです。観念というのは「赤」、「青」、「人間」というように言語抜きには扱えません。そして知識(真理)の問題は、言語を用いた判断の形をとります。ということで、言語論的転回では、この言語に焦点を当てないで観念を扱うことはできない、という方向になるわけです。つまり、私たちが何を知り得るのかを、言語論的転回では、文の有意味性を問うことで解決できると考えました。

 言語論的転回に基づく哲学を言語論的哲学と言いますが、例えばバートランド・ラッセル(1872-1970)は、日常使っている言語が見かけの構造に引きずられておかしな考えにいたる、と主張しました。彼は、「現フランス王は禿頭である」(肯定文)と「現フランス王は禿頭ではない」(否定文)が両方偽(現フランス王は存在しないので)になってしまう困難をどう解決するかを提示しました。伝統的に主語ー述語の肯定形、否定形はどちらかが真でどちらかが偽と考えられてきたからです。

 ラッセルの解は、「あるものは現フランス王であり、かつ、そのあるものは禿頭であり、かつそれ以外に現フランス王なるものはいない」という3つの小さい文を「かつ」で繋いでできた長い文を縮めたものだから、というものです。「かつ」でつないだ文章は、全部が真でなければ全体は真になりません。

 私たちの日常使っている言語が、その本当の構造を示さないことで、私たちの思考が間違うことがあると、ラッセルは主張したのです。また、ドイツ生まれの哲学者で、後にアメリカに帰化(1941)したルドルフ・カルナップ(1891-1970)は、無意味な言葉やおかしな言葉使いを含む文は無意味な文章だとします。例えば、「無」についての論考について、「無」の概念をストレートに問題にするのでなく、「無」という言葉の用法を分析して、批判しました。

 この方向性は、やがて理想言語を考えるようになっていきます。同時に、日常言語を厳密に調べようという方向も出てきます。言語論的哲学者は、言語抜きの観念や表象を役に立たないものと考えるようになるわけです。こういう立場が、ノミナリズムと言われますが、これはまた別に書きたいと思います。 

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