宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

諦める力

 母の入院で、老いとその終焉の問題を改めて考えさせられています。年齢もあり、急変したときどうするか、を考えざるを得ませんでした。朝日新聞2011年10月の「逆風満帆」で、小児科医の細谷亮太さんへのインタビュー記事が3回にわたって掲載されましたが、「治る時代」ゆえの苦悩の問題を提示している部分を思い出しました。

 「医師が『つらいですが、こういう治療もありますよ』と選択肢を示すと、家族は『少しでも可能性があるのであれば』とすがろうとする。『確かに奇跡が起きるかもしれない。その治療を糸口に99%の人が治る時代がやがて来るかもしれない。でも、それを患者さんに強いるのは可哀想だな、と。そう感じるようになったからには、化学療法の最先端からは退いた方がよいだろうと思うんです』(『朝日新聞』2011.10/15)

 小児癌治療の先頭に立ってきた細谷さんの言葉に、納得するものがありました。細谷さんは、先端医療を否定していません。ただ、人の生き方の在り様の多様さを受け止め続けてきた細谷さんの感受性が、闘い続けることだけが意味あることではないのでは?と諦念するようになった。これが高齢者の場合、さらにどこまで頑張るかの見極めが必要になります。

 諦めると言うと、逃げる姿勢が強調されますが、諦めるの字義は、「明らかにする」「つまびらかにする」で、真理・悟りの意味です。そこからあきらめる、断念する、思いきるが出てきます。命の限りあることをどう見きるのか。ホスピス医の徳永進さんは、臨床の矛盾との向き合い方について、「(当事者に)笑顔があるかないかだと思う」(『東京新聞』2013.5/19)と語っています。

 近現代の能動的・主体的人間観の中で、攻めの姿勢、諦めない姿勢が肯定的に評価されてきました。明晰・判明な意識こそが真理の徴。徳永さんの言うような「一生懸命ぼんやりしている」は、決して怠けている状態ではありません。むしろ明晰・判明な意識状態だからこそ、「一生懸命」ぼんやりする必要があるのでしょう。決めつけることから身を離して、「ぼわー、とぼんやり立っている」と「ボールが来る。それをどうしよ、どうしよと言っていると道はできる」。

 先へ進むことに意義があるとつい思いますが、進めなくなったときどうするのか。その状態を受け入れて、状況を見定め、自分の思いを吟味して、諦めるのは難しいことです。私たちに先は見えません。どこで、納得するのか。後悔することを恐れて、先へ先へとひたすら進んで、砕ける方が分かりやすいとも言えます。

 諦める力は、納得する力と車の両輪だと思います。この納得する力は、観ること、語りあうこと、吟味することの繰り返しの中で育てられるのではないでしょうか。

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