宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

言語論的転回1)言葉と心の中の何かの関係

 私たちは、何かを理解するとき、ごく自然に言葉を使っています。何かもやもやと感じたものを「えーと、えーと」という感じで言葉を探し、ぴたっと当てはまる言葉や表現が見つかったとき、「そうだ、分かった」と感じます。でも異なる側面を見て、あれっ、ちょっと違うかなぁ、とまたもやもやして言葉を探し、を繰り返して理解が深まっていく気がします。だから、何かを理解するというのは、終わりのない過程であって、ある意味面倒でもあります。通常は、「常識」を受け取って、何かに対する理解にしています。

 さて、このもやもや、自分の心に直接浮かんだものを観念と言います。自分の心に浮かんだものを考えたり、人に伝えるとき、言葉を使います。この言葉はどうやって生まれるのでしょうか。ジョン・ロックは、『人間知性論』第3巻第2章で、観念こそが言葉を必要とする、観念にこそ言葉の意味があるといいます。つまり、思想はすべて人間の胸の内にあって、それを伝える喜びや利益のために、「外的可感的記号を見いだす必要があった」と。しかし、その「特定の分節音と一定の観念との間のなにか自然の結合によるのではない」とも。それは「有意的な設定による」というのですが、この設定がどのようなもので、どうしてそれを共有するようになるのか、いま一つ分かりません。

 ロックは、人々は自分の言葉と他の人たちの言葉が同じ観念を表示すると想定するというのです。観念が意味を持つのであり、だからこそ認識論的転回の担い手たちは、純粋な観念や表象を扱おうとしました。でも、言語表現抜きのそれら、言語抜きに観念や概念表象を扱えると言うのは誤りではないかという問題意識が出てきます。言語に焦点を当てるべきではないかと問題意識が変わっていきます。

  言語論的転回では、言語のあり方をよくわきまえていないので、意味のない文を作ったり、真偽の確かめようのない主張を行ったりする、と考えるように方向転換します。1920年代ウィーンで始まる論理実証主義は、カントは感性や悟性や理性の働きをあれこれ考えて正当な認識と偽の認識を区別しようとしたが、自分たちは、文が意味をもつかどうかを明らかにすることによってカントの意図を成就しよう、という方向を示します。つまり、哲学的な重要問題を言語分析によって解決しようとします。言語分析が前面に出てくるわけですが、これが「言語論的転回」と言われます。この言葉を広めたのはリチャード・ローティですが、この言葉の生みの親は、グスターフ・ベルクマンという人のようです。

 言葉と観念との関係は、単純に言葉を重視する方向に変わったというものではありません。ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の最後の文章「話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない」は決して、言葉にならないものを無意味と断じているものではありません。言葉と言葉を超えるものの関係について、もう少し考えていきたいと思います。

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