宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

愛について3)コミュニケーションとしての愛

 ピョンチャンオリンピックで、男子フィギュアが金銀をWで獲得しました。やったーという感じです。羽生結弦選手の姿にはやはり感動します。リンク際で3位を取ったハビエル・フェルナンデス選手(同じコーチについている同士)と抱き合って泣いている姿を見たら、こちらも思わずもらい泣き。こういうのが友情(フィリア)なんだよなあと。

 その後、県立図書館に行ったら、渡邉邦夫先生の「相思相愛の倫理学」の講演会をやっていました。ちょっとお邪魔させていただいてお話を聴いてきました。面白かったし、アリストテレスの「愛」をめぐる考察が分かりやすくまとめられていました。エロス(エロース)が個人の欲求だとすれば、「フィリア」とは、まさに関係としての愛ということでした。アガペーは古典的には、日常的に「愛する」という意味でしたが、後のキリスト教では、人に対するわけ隔てのない「神の愛」と、これを模範にした人間の「隣人愛」を意味するようになりました。

 少し補足です。eran, philein, agapanは、ギリシア語の愛に関する3つの動詞です。エランは熱狂的に愛し、おのれのために他を求めます。元来の性的意味合いを取り去って、哲学述語として使われるようになった後も、高きに至って自己を充実させると言う意味を失っていません。

 ピレインは、配慮的愛。神々の人に対する、友人の友人に対する関係に用いられて、エランのような衝動的意味がないので、広く人間全体を包む愛の意味を持ちます。

 アガパンは性愛的意味も持っていましたが、ある物を他のものより優遇する選択的ニュアンスを持ちます。その意味で日常的に「愛する」というあり方です。聖書以降、哲学的思索の対象となりました。ユダヤの教えでは神の愛は、選ばれたものに向かう(選民思想)ので、そのギリシア語約としてはアガパンやアガペが適切だったわけです。

 キリスト教によって、ユダヤ的狭さを捨ててピレインの持つ広さをあわせて獲得したとき、アガペがキリスト教の「愛」を言い表す語になりました。「キリストは我らのために死にたまいしによりて神は我らに対する愛(アガペ)を現したまえり」(パウロ)。神の人への愛、人の神への愛、人間相互の兄弟愛(隣人愛)がアガペという一語によって確立します。しかしそれは、神から人間に下ってくる下降的愛が基本です。

 質問の時間に、ある女性が、(おそらく職場における)苦手な人との人間関係にどう向き合うかを聞いていました。何年も関わりが上手くとれてこなかったが、でも努力していくべきなのだろうか、と。渡邉先生からは「難しい質問ですね。個別状況が分からないと応答できないし、倫理学では一般化した話になっているので何とも言いようがありません。ただ出来ることがあれば、やってみられることも一つの方法だと思います」というような返答がありました。

 そうなのです、倫理学では応答しようがありません。よさを求め続けるのが倫理的方向性だとも言えるので、努力し続けることは推奨されます。ただ、そこでどう決断するかは、本人の問題なのです。ある種の理想型や典型を語ることと、現実にどう対応するかには別の側面があります。実存倫理が言っていることはそこの部分です。ただし理想型や典型に意味がないわけではありません。理想型や典型と向き合いながら、自分の今の状況の中で葛藤して決断することに意味があります。自分の今の状況とは、具体的個別的問題状況や相手の性格、そして自分の引き受ける能力などを総合的に判断して決断し行動する。正解はありませんから、将来的に失敗した、と思うこともあります。その意味で将来への責任も引き受けながら決断します。

 倫理学の立場では、私も渡邉先生と同じように答える気がします。ただ個人的には、質問した女性の話しぶりの真面目さや悩んできた期間の長さから、苦手な人とは距離を置く(気持ち的に逃走する)のもありだと感じました。人を理解するのは難しいし、自分の価値観や好みがいい意味で豊かになる葛藤というのも難しいです。なぜなら、豊かになる前には、自分の世界の揺らぎが当然出て来て、それに消耗することも多いので。自分の世界の脱構築は、自分の世界が壊れる恐怖とも向き合うわけですから、かなりのエネルギーを要求されます。これもやるかどうかの判断は、基本自分です。

 もうひとつ面白かったのは、アリストテレスの「自分を愛せる人」が自分以外の隣人も愛することが出来る、という主張でした。これは利己主義者の自己愛とは区別されます。自分を本当に大切にするという意味での「自分を愛せる人」です。アリストテレスは、友人に対する真の愛とは、「自分自身に対する『友人関係』に由来しているように思われる」(『ニコマコス倫理学』第9巻第4章)と言っています。ここでの愛は、善さを求めています。これが、仏教の中での自己愛の捉え方との違いかなとも思います。

 ひろさちや『愛の研究』の中に、『相応部経典』に出てくる話が載っています。そこで釈迦は人間は誰しも自分自身を愛しているのだから、他人を傷つけてはいけないと言っています。それはこういう話です。

 コーサラ国の波斯匿王(はしのくおう)は、王妃の末利夫人(まりぶにん)との対話の中で、お互いが一番愛しいのは自分だと結論に至って悩みます。そしてそれでいいのか釈迦に質問します。それに対する釈迦の答えは次のようなものでした。

「人のおもいは、いずこへもゆくことができる。されど、いずこへおもむこうとも、人は、おのれより愛しいものを見いだすことはできぬ。それとおなじく、他の人々にも、自己はこの上もなく愛しい。されば、おのれの愛しいことを知るものは、他のものを害してはならぬ」(『相応部経典』三、八「末利」)。

 釈尊の言葉を集めた『ダンマパダ』(人生の指針となる言葉)の中では、愛とは渇愛でしかないのだから、「愛するな」となっています。愛とは結局エゴイズムであり、愛する対象への執着(渇愛)でしかないからです。しかし、その教えは出家者に対するもので、在家の人に対しては、自己愛を理解して、だからこそ他人を傷つけるな、と教えました。これが大乗仏教の教える「慈悲」だと言われます。私は、相互エゴイズムの承認からくる倫理とも言えるかと考えます。

 エーリッヒ・フロムは『愛するということ』のなかで、「愛について語ることは、どんな人間のなかにもある究極の欲求ほんものの欲求について語ること」(197頁)だと言っています。そして、現代社会が愛を難しくしている。なぜなら、生産を重視し、貪欲に消費しようとする精神が社会を支配しているからであり、愛はしょせん二次的な現象になっているからだと。もう一つ、フロムは愛されることより愛することを基本に考えています。これはヨーロッパ思想史の基本にある考え方と言えます。

 プラトンは『饗宴』の中で、ソクラテスを通して、愛とは「愛される」というより「愛する」ことだ、と言っています。アリストテレスも愛には「愛し返す」「相手のために善を願う」「相手に気づかれている」という3つの条件が入ると言っています。彼もまた、愛は愛されることにあるのでなく、愛するという能動性の中にあると信じていました。ただし、ストーカーの<愛する>行為は能動的であっても、3つの条件を満たしていません。人を人として「愛する」というのは、思いこみでなく相手を本当に大事に思って、その好意に気づいていることで、選択に基づいて愛し返すという「コミュニケーションとしての愛」だということです。

 人間関係の正の極みにあるのは愛と言えるのでしょう。負の極みは憎悪ではなく、無関心ということでしょうか。愛の反対は無関心。これはマザー・テレサが言っていた言葉でもあります。

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