宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

他者を理解することのメルクマール

 15日は暖かい日差しが気持ちのいい一日でしたが、16日はまた寒さが逆戻りしてきました。2月は毎年寒いのですが、今年は1月から寒かったので、それに大雪も降ったりして、身体が縮こまりがちになってます。身体が縮こまると心も縮こまるのかなあ。

 人間関係論の授業で、理解の問題を扱いました。自己理解と他己理解のずれとか、共感と同情は違うとか。しかし、現実の人間関係の中で、私たちはどのくらい他者を理解しているのか、これは難しい問題だと思います。言葉や行動を通して、私たちは他者と出会い、好きだと感じたり嫌いだと感じたりします。この感情反応は、自然なものですが、問題もはらんでいます。

 他者を理解するといっても通常私たちがやっていることは、自分の視点から相手を解釈することです。それはどこまでも「私」の解釈ですが、その解釈が「他の人」と一致するような事態も生じます。その場合、自分の解釈がより「強化」され、「集団は極端な考えを生みやすい」という「集団極性化」が起こると言われます。「他の人もそう言っているから間違いない」と自分の考えに確信を持つからです。

 結果、誰かを信奉したり、あるいは拒否したりする傾向が強くなります。なんか怖いといえば怖いなあと思いますが、ごくごく当たり前にそういう心の動きはあると思います。

 ただ、たとえ苦手な人であっても、その人なりの人生の厚みがあって、自分が見ているのはその一部だろうという「恐れ」を忘れてはならないと思います。誰かを理解しようとするとき、その人の生い立ちから、ものの考え方、嗜好など、今ある状況がなぜ出てきているのか複合的にとらえていく必要があります。それには、自分の好き・嫌いや善い・悪いなどの価値判断を脇に置いて、じっくり話を聴くことや相手を観察する必要がありますし、理解したとき恐らく何らかの親しみがわいて来るのではないでしょうか。それが理解のメルクマールかな、という気がしています。ただし、なかなかそういう「態度」で日常的に人間関係を作ってはいません。特に苦手だと感じる人に対しては。だからこそ、他者の人生の厚みへの「恐れ」を忘れてはいけないと、肝に銘じておこうと思います。

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