宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

認識論的転回1)デカルトの<心の発明>

 昨日の夜、『人体⑤「〝脳〟すごいぞ!」』を見ましたが、うーん、もう少し踏み込んで欲しかった内容でした。ただ、脳のひらめきの瞬間と、ボーっとしている瞬間とが同じ状態にあると言うことが、脳のMRI画像で解明されたことには納得。「デフォルト・モード・ネットワーク」という状態で、断片的記憶をつなぎ合わせる働きをするようです。認知症の治療薬に至る治験の話も取り上げられていました。

 脳の話を見ているうちに、認知の問題を哲学の領域で扱っている、認識論を考え始めました。『科学哲学者 柏木達彦の冬学期』(冨田恭彦、ナカニシヤ出版)で分かりやすく書かれています。つまり「世界とは? 人間とは? 人間いかに生きるべきか?」を問うとき、ワンクッション置くのです。ちょっと待ってよ、そんなこと問題にしてどこまで分かるのかな、と。人間はそもそも何をどこまで知ることができるんだろう、と。

 この「人間は何をどこまで、どのように知ることができるのか」を扱うのが認識論です。知ることができる事柄とできない事柄とを、明確に区別する必要があるのではないか、という問題意識から始まります。この人間の知識の本性を探求する学問は、探求の対象としての「人間の心」の領域を必要とします。この「探究の領域はデカルトが創造したもので」、「デカルト的な<心>の発明」(リチャード・ローティ『哲学と自然の鏡』146頁)と言われるものです。

 知識の内容云々の前に、知識が発生する現場を吟味しようと言うことです。そこで、ルネ・デカルト(1596-1650)登場。天使が存在するかどうかが真剣に議論されていた時代、デカルトは「私たちは何を知ることが出来るのか」、その認識の確かさを問題にします。そこで彼が取ったやり方が、「方法的懐疑」です。それが真実であると「はっきりと正確に」認識できないうちは、何も真実とみなしてはならない。それは本当に存在するものについての確かな認識(知識)に到達することを目指します。

 デカルトは当時の最高の学問を修めますが、全然賢くなっていないと感じました。そこで「世界という大きな本」に見つかる知だけを追い求めようと、ヨーロッパを旅し、軍隊にも入ります。でもどうも上手く行きません。そこで彼は自分の観念を調べます。自分の心が意識している様々なものを「観念」と言いますが、原語はラテン語で「イデア」。デカルトは意識の対象となるものすべてにイデア、観念を使います。

 感覚から来る知識は、錯覚、夢と現実が区別できないなどの理由から、その確かさが疑われます。では、数学的知識はどうか。簡単な証明でも間違える人がいるのだから、私もまたどんなことで誤謬を犯さないとも限らないから、やっぱり疑いの対象になります。それゆえ、すべては疑いえることになります。この辺り、分かりにくいかもしれません。

 ある計算を間違えたのは、その計算に関する知識が正しくないので、その知識は存在しません。でも、デカルトが試みたのは、個々の例を挙げながら、でもそこでやろうとしたのは一挙に疑うことです。つまり、疑うことができない知識は存在するかどうかデカルトの問題でした。ない、というのがデカルトが到達した答えです。

 しかし、その瞬間に疑っている「私」が存在することは疑えない。この場合の「私」は、感覚的に知られる知識がすべて捨てられた上での「私」なので、身体はまだ確証されていません。この「私」は世界や人が存在するという判断を止めても、世界や人についてさまざまな観念を相変わらず持っています。心は様々なものを意識しているのです。デカルトの哲学の第1原理が、この疑う瞬間に「われは在る」ということです。これが「われ思う、ゆえにわれ在り」です。

 ではこの考える「私」と同じくらい直観的に確実なものはないだろうかを、次に吟味します。色々な観念を吟味して、「完全なもの」=神という観念に至ります。ここからが極端に合理主義的な考え方になるのですが、考えて納得のいくものほど確かに存在するという考え方です。で、神の存在証明は次のようになります。不完全な私たちが完全なものという観念を作りだせるはずがない、ゆえにそれは神から出ているに違いない。かつ完全なものという観念は「存在」を意味として含んでいる。だから完全なものは存在しなければならない、ゆえに神は存在する。

 そして、神は誠実な存在なので私たちを欺いたりしない。感覚的知識から来る外の世界もすべてが誤りとは言えないだろう。ただし色とか臭い、味のような「質的特性」は私たちのあいまいな感覚器官に結び付いて、外の現実を表していないかもしれない。数、長さ、幅、高さなどの数学に関わる「量的特性」は理性によって認識できる外の世界であることは、「神の保証」がある。

 かくして、「私」が考える存在であり、神は存在し、外の現実もあることが付きとめられた、となります。「思惟するもの」としての精神と、「延長(広がり)」としての物体(身体)は、それぞれ自分の原理で動いている別の実体です。これが身心二元論と言われるものです。

 しかし、人間にあっては精神が身体のどこかにあって、特別な組織で身体とつながっていると、デカルトは考えました。それが松果腺という脳組織に違いない。だから精神はこれによって、身体の欲求に結び付いた感覚や感情によってかき乱される。でも精神は身体から独立していて、精神が主導権を握るとデカルトは考えていました。なぜなら、私の調子が悪くても数学的真理は変わらないし、身体が衰えても、理性は年を取らないから。この辺りは、どうでしょうね。

 デカルトが発明した<心>の領域とは、自己意識の発見と言えます。デカルトの「私についての原理」は、「この世界」から一歩退いた「私の世界」を可能にしました。ただ、意識が自己意識の機能を持つことと、その意識の自己反省機能を実体化することは別のことです。現象学の吟味はここから始まります。 

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