宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

愛について2)

 さすがに3日続けて勤務は疲れました。帰りにマッサージに寄ったら、かなり関節が固くなっていると言われました。まあ、散歩もしてないし、あまり体操もしていないので。

 さて、森有正が、肉体の生はただ一回限り、「だから、ほんとうの愛も唯一つしかない。それにすべてを注ぎ尽くすことのできた人は幸福である」と言っていることを思い出しました。彼はこうも言っています。

 「唯一つと僕はいったが、本当の人生を生きる人間にとって、愛は一つ以上あっては、かえって余計で、愛そのものを破壊してしまうのだ。しかしその唯一つはどうしてもなければ、その人の全人生は、他に何があっても『無意味』なのだ。その代り、それ一つがあれば、他の何もなくても、全部的に充実しているのだ。そしてそこから広大な精神の世界がひらけてくるのだ。そしてこの愛は、肉体の直接的感覚からはじまることが多い。だからそこに偶然性が入ってくる。殆どすべての人はそれに苦しんでいる」(『バビロンの流れのほとりにて』)

 森有正は好きでよく読みましたが、この言葉に出会ったとき、彼のロマンティシズムにはっきり言って戸惑いました。ロマンティシズムそのものにではなく、精神の飛翔を追うロマンティシズムと肉体の愛から始まるロマンティシズムの関係に戸惑いました。

 愛は相乗作用ですから、二人の心の波長が合わなければ消えてしまう、あるいは育ちません。まさに感覚の出会いから始まり、そしてそこから精神の世界が開けることは、奇跡に属するのでしょう。だから殆どすべての人はそれに苦しみます。

 結婚の中で女性が自分を譲ることはまだまだ多いのではないでしょうか。特に子どもが居たりすれば。結婚を見据えた恋愛だと、どうしてもそこで感情より「計算」してしまう。そこそこ愛していてそれなりに私も自由に生きれる結婚かどうか、と。お互いが同じように考えていれば、そこにも愛は育っていくでしょう。しかし、自分をなだめ、どこかで帳尻合わせをしているだけなのかもしれません。

 現代社会では、あらゆることが価値評価の対象にされ、さまざまな値段がつけられます。だから自分のことさえ、評価の対象として扱い、愛の関係においてでさえ、自分を取り引きの駒にしています。自分が何を「感じているのか」は第二義的になり、いつか「何かを感じていること」さえわからなくなってしまう。だから他人も「何かを感じる存在」ではなく、単に「考え、行動し、何かを達成する存在」のように見えてしまう。ここには恋愛は成立しないでしょう。

 生きることの難しさを語った森有正は「私たちはただ自由に、しかも自分を偽らずに生きていくほかはないわけです」(『いかに生きるか』)と述べましたが、おそらく恋愛は、そういう生き方の中でしか出会われないのでしょう。自分の人生を生きていないと、自分と本当に波長の合った他人との出会いは分からないので。恋愛は、その意味で、人生の中で波風を立てる覚悟が必要とされます。

 もちろん現実生活は、妥協の連続と言った方がいいのでしょう。互いに妥協しあいながら、そこそこ上手くやっていければいい。それなりに情も感じるようになり、家族としては成り立って行きます。その辺りのころ合いを共有できる関係、それはそれで幸せな「夫婦」でいられると思います。相性の問題もあるのでしょうが。

 愛についてはもちろん、恋愛だけがテーマではありません。また仏教の中での愛の捉え方は、少し異なっています。それについても考えてみたいと思います。

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