宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

音楽の力

 熱は平熱に戻り、食欲も戻りましたが、胃腸の調子が今一つ。日曜日は黄色い痰が出ていましたが、今日は鼻水も水っぽいものが出るくらいでした。ただ首を回すと痛みがあり、よく回りません。腰の痛みは大分緩和されました。

 今日も一日ぐうたらしていました。ぐうたらテレビを見ていると、仮想通貨の話をワイドショーで扱っていました。やはり今一つよく分かりませんでした。主婦は時代の話題に敏感と言われてきましたが、確かにテレビのワイドショーを通して、情報は入って来ます。新聞読むより、ながら視聴できるし、楽に情報収集ができます。でも理解しようと思うと、新聞を読みます。場合によっては読んでもよく分からないのですが、テレビからの情報は、新聞でその問題を読もうというきっかけになります。仮想通貨の話は、結局あまり分かりませんでしたが。 

 で、音楽の話。モーツァルトの曲は、華麗で流暢だなあと思います。調子が悪い時には心地よい癒しの音楽です。聴いていると、すーと心が滑らかに落ち着いてきます。音楽はいろいろな力を持っているなあと、この頃思います。聴覚を通してこころ(魂)に直接働きかけて、気分を調整したりします。あるいはもっと訓育的な側面もあります。ミュージック・ケアは、やはりそういう音楽の持つ、人間のこころに働きかける側面を使っているわけです。なぜ音楽はそこまでの力を持つのか。歌詞であれ曲であれ、それらを創る人間と作品はどういう関係にあるのでしょうか。

 そう言えば、『アマデウス』という映画がありました。下品なモーツァルト像を描いていました。これはどこまで信用できるのでしょうか。でも、観たとき、これもありかなと思ったことを覚えています。

 女性小説家カロリーネ・ピヒラーが、モーツァルトハイドンについて、下品で高級な知能を持たない人たち、凡庸な精神という素質、面白みのない冗談というように辛辣な評価をしていたのは事実です。しかし、彼女はまた、この取るに足らない殻の中には、素晴らしいファンタジー、メロディー、ハーモニー、そして感情の世界が隠されていた、とも付け加えています。一筋縄ではいかない人間性が垣間見えます。

 また、モーツァルトが従姉妹に排泄にまつわる駄洒落にあふれた手紙を送ったこともあり、この従姉妹とは恋愛関係にもあったと言われています。モーツァルトのスカトロジー(糞尿への拘り)の傾向を指摘する根拠とされたりしますが、当時の南ドイツでは親しいもの同士の間でこの手の話は日常的なもので、タブーではなかったようです。

 19世紀の伝記作者は、このようなスカトロジー表現を無視したり破棄したりして、モーツァルトを美化しました。現在では、モーツァルトのこのような側面は、彼の快活な性格を表すものと受け止められているようです。彼の示す猥雑さは、人間としては当たり前かなと思えます。確かに、清廉潔白なモーツァルト像はつまらないといえば、つまらないです。ただ、『アマデウス』のモーツァルトも極端すぎるのは事実で、人間の真実はその中間にあるのでしょう。

 モーツァルトをよく知っていた人の回想文を集めて出版された本には次のような表現があるそうです。

「彼はもっとも複雑な音楽の中でさえ最小の不協和音を指摘し、ただちにどの楽器がしくじったかとか、どんなキーで演奏すべきだったかというようなことまで口にした。演奏中の彼は最小の夾雑音にさえいらだった。要するに音楽が続く限りは彼は音楽そのものであり、音楽が止むとすぐに元の子どもに戻るのだった」

 芸術作品は、その創作者の人間性が生み出すというよりも天性の才能による、ギフトなのだと捉えると、なぜ人の心に深く働きかける力を持つのかが分かる気がします。それは人間的理性(人間が自覚的に訓練できる最良のもの)を超える力が受け取り、カタチにするものだからではないかと。

h-miya@concerto.plala.or.jp