宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

自由をめぐって2):日本人にとっての自由

 幸福にとって自由が重要だと、ラッセルは書いていました。では、日本で自由はどういう意味を持っていたのでしょうか。どうも、自由という語は「我儘放蕩」、好き勝手や自由気ままという意味で用いられていたようです。『続日本紀』まで遡れるとか。それを、libertyの訳語として定着させた功は、福沢諭吉にあるようです。しかし彼も大分悩んだようです。libertyの訳語として、自主・自尊・自若・自主宰・任意・寛容・従容などは漢訳にあるが、言語の意義を尽くさないと。

 自由とは何かをめぐってP.フルキエは『哲学講義3』(筑摩書房、1976年、149頁)で、自由の概念は束縛の欠如を含むがそれだけでは十分でないと述べています。そしてこの概念は、社会的起源のものでliberi(自由な人びと)はservi(奴隷)に対立します。それゆえ自由はまず市民的自由と政治的自由を意味し、後に心理的・倫理的自由を表すようになりました。

 心理的・倫理的自由は自分で自己決定する力を意味します。自由は自らが正当と認める理由によって自分で自己決定する力ですが、これは選択する力ではないとも言われます。選択の余地が残っているものは、完全に合理的に(真に)自己決定しているわけではないからです。

 しかし、自由の実現とは、私たちの自由が社会のなかで保障されていることでもあります。それを前提に、私たちの自己決定の力が発揮されるからです。では現代日本における自由とはどのようなものと言っていいのでしょうか。

 ①日本人の理想は、純粋、無私の実現(自然に生きる、「おのずから」の形而上学)というもので、「清き明き心」、「正直(せいちょく)の心」、「忠誠心」に代表されるようなものです。清き心とは、禊(みそぎ)によって清められた状態の、混じりけのない心持ちで、清明(せいめい)心は臣下に要請された心です。中世の正直(せいちょく)の心とは忠誠心を意味します。すがすがしく清められた、混じり気のない純粋な心のことで、近世の「誠」から現代の誠実さにつながっています。純粋、無私の追求の象徴的なものです。

 山鹿素行(1622-1685)は儒学者かつ、軍学者であった人です。彼は、今の福島県に浪人の子として生まれ、6歳で江戸に出ます。林羅山のもとで朱子学を学びますが、朱子学を批判したことで赤穂藩にお預けの身となりました。忠臣蔵で有名な大石内蔵助(本名 良雄)は素行の門弟の一人です。因みに兵法山鹿流といえば、吉良邸討ち入りの合図にたたかれた「山鹿流陣太鼓」が有名ですが、これは創作だそうです。素行は、「おのずから」という意味での自然を重視し、「やむ事を得ざる、これを誠という」として天地自然の誠に生きることを説きました。

 伊藤仁斎(1627-1705)もまた、朱子学を批判した人です。朱子学の「理」の思想を批判して、「情」を打ち出しました。忠信としての「まこと」とか、表裏のない純粋な心など、四端の心や性善説孟子の説)を唱えました。四端の心とは、人間がもともと持っている善の芽です。それが育って、仁・義・礼・智という人間の四つの徳になると言うのです。 本居宣長(1730-1801)は、「人欲もまた天理ならずや」として人間の自然な欲求や感性を肯定しています。

  ②かつて丸山真男は日本人の発想は「なる」であると主張しましたが、相良亨は「おのずから」が日本人の思惟の根底にあると言います。日本人の根底にあって今も私たちを規定しているものは、「おのずからなる自然」と、自然に即して生きることが理想であるという人間観・自然観ではないでしょうか。それはまた人間の欲望を「おのずから」のものとして肯定する立場でもあります。

 ある種、達人の境地を理想とする、という理屈でなく「全体の状況で考える」という訓練を、日本人は伝統的にしてきたと河合隼雄さんは言います。そういう全体の中での人欲の肯定だったものが、第2次世界大戦敗戦後のプライベート(私)の重視と重なり合って、個人は自由に主体的に生きるべきであるといわれた時、「個人=私=人欲」の図式が生まれました。個人の勝手気侭=主体性の発揮と受け取られることになったわけです。かくして勝手気侭=主体的と解釈(誤解)されたまま、他人に迷惑を掛けなければ何をしてもよいというのが「個人の自由」とされました。

 河合さんによれば、急に借り物を使い出しておかしくなった、わけです。日本において、人間における理性への評価や個人が理性によって普遍に通じるという発想は弱く、「理(ことわり)」への嫌悪感というものがあります。これらは、人間を自然の中の生命の循環として位置付ける精神風土と関わっています。欧米流の個人の主体性やプライベートの重視は、理性によって捉える普遍性と緊張感を持ったものですが、日本ではこの後者の部分は欠けている気がします。

 しかし、欧米流の論理的で論争に強い伝統も、日本の全人間的状況で考えるという伝統も、グローバル化と変化の速さの中で行き詰まり、どちらも現代では問題をはらんでいます。じゃあ、私たちはどうするのか。自分で確認しながら、進むしかない。全体の状況をにらみながら、自分も他人も活かす自由というのは、なかなか大変なことだなあ、と思います。基本的人権に関しては、理念として掲げていいと私は解釈していますから、憲法が掲げる個人の自由権は社会的コミットメントに属すると思います。ただ、個々の場面における個々人の具体的自由をどう考え、どう行動するかは、近江商人の「三方良し」の発想や、アサーションの考え方など、いろいろ思います。

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