宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

幸福をめぐって2):「しあわせ」と感じること

 夜寝る前に湯船に浸かって「しあわせ」と思います。こういう時、「幸福」という言葉は浮かんできません。「しあわせ」と「幸福」は微妙に異なる言葉です。快を感じているとき、「しあわせ」という語感がぴったり来ます。「幸福」は人生全体を視野に語られとき等に、使われる概念的言葉と言えます。でも、広辞苑を引いてみると、「しあわせ」という言葉の意味範囲のほうが広いのです。

 しあわせ【仕合】①めぐりあわせ。機会。天運。②なりゆき。始末。③幸福。幸運。さいわい。④(主に室町時代に)裕福。

 こうふく【幸福】みちたりた状態にあって、しあわせだと感ずること。

 こう見てみると「しあわせ」という言葉は、成り行きやめぐりあわせという意味と、それが自分にとってうまくいっている時の状態を心の在り様まで含めてとらえている言葉と言えます。幸運という意味合いが強く出ている。幸福は、自分ひとりで何とかできるものではない側面もあり、そこを捉えている言葉とも言えます。

 幸福には主観的側面と客観的側面が考えられます。主観的幸福は、内的満足。自分の欲望の対象に到達できたという意識が与えてくれる満足からなります。日常語では快楽の優れた形と見なされているので、幸福が語られるとき念頭に浮かぶものです。客観的幸福とは、語源的には幸運と同義。目的を遂げた結果として生じる満足を考慮しない達成した目的そのもの。善そのもののようなもののことです。 

 さて現代の幸福主義の哲学、功利主義では「幸福」はどうとらえられているのでしょう。功利主義の考え方は、それまでのイギリス経験論の中に既に現われていますが、それを一つの思想的立場に確立したのは、ジェレミー・ベンサムです。功利主義は快と苦を人間の根本的事実として、そこから人間のあらゆる領域に亘る原理を立ち上げます。ベンサムは次のように述べています。

 「自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた。……一方においては善悪の基準が、他方においては原因と結果の連鎖が、この二つの玉座につながれている。苦痛と快楽とは、われわれのするすべてのこと、われわれの言うすべてのこと、われわれの考えるすべてのことについて、われわれを支配しているのであって……」

 すなわちベンサムは、人間の快楽と苦痛こそ根源的事実であると捉え、それを善悪の規準とします。つまりこの快楽を増大し苦痛を減らすことが善であり、快楽を減らし苦痛を増大することが悪なのです。そして快楽と幸福は同じものと見なされ、かつ苦痛は不幸と同じものとされます。それを踏まえて、<功利性の原理 the principle of utility>が言われます。これについては次回。

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            夕暮れの名平洞。あっという間に陽が沈みました。

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