宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

幸福をめぐって1)

 私たちは幸福になりたいと思って生きていると思います。ただ、あまりそのことを日常の中で考えていることはないでしょう。自分の信じることをやっていると、時につらい状況にも追いやられます。このところの相撲界の一連の出来事のニュースを見ていると、貴乃花親方の姿勢に、そういうことを考えてしまいます。幸福とは一見離れていっている状態とも見えますが、それは幸福をどう考えるかなのでしょう。

 アリストテレスは『ニコマコス倫理学』冒頭で、いかなる技術、研究、実践、選択も何らかの善(アガトン)を希求していると述べています。そしてすべての行いを蔽う目的、究極目的が存在するなら(それがなければ目的の系列は無限に遡って、その結果われわれの欲求は空虚で無意味なものとなる)、それは善であって、最高善(ト・アリストン)でなければならないとします。

 では、最高の善とは何か。人々の答えは一致します。幸福(エウダイモニア)=よく生きている(エウ・ゼーン)=よくやっていること(エウ・プラッテイン)です。なぜなら私たちが幸福を望むのは、常に幸福それ自身のためですから。名誉、快楽、知など他の卓越性(アレテー)はそれら自身のゆえでもありますが、しかしまた幸福のためでもあります。しかし幸福を、これらのもののために選ぶ人はいません。

 私は名誉、快楽、知を求めるのが幸福のためとは必ずしも言えない気もします。幸福のために求めているときは、バランスが取れている。でもそれぞれをそのもののためにに求め走り始めると、幸福からずれていく気がします。

 ともあれ、アリストテレスの幸福論では、幸福であることとよく生きることは同じことであり、それが具体的に何かと言うときに差異が生じるとされます。富に関してはそれが何かに役立つもので最終的な目的になりません。そこで考察の候補は快楽、名誉、観想(テオーリア)の三つとなり、それぞれを目的とした生活が、享楽的生活、政治的生活、観想的な生活です。しかしこの三区分に特徴的なことがあります。それはこれらの三区分が、生活の必要から離れた自由な活動に関わるもののみを扱っている、と言う点です。ハンナ・アーレントは『人間の条件』(ちくま学芸文庫、26頁)の中で次のように言います。

 「アリストテレスの場合、人間が自由に選び得る生活とは、自分が作り出した諸関係と生活の必要物にまったく関係なく自由に選びうる生活のことであったが、彼はそれを三つに区別した。…(中略)…自由な三つの生活様式は、それらが『美しいもの』、すなわち必要でもなければ単に有益でさえないようなものに関連しているという点で共通している」

 またアリストテレスは、快楽を現実活動に付随するものとしました。快楽は優れた現実活動に付随するとき、その活動を完全なものとします。すべての快楽を認めたのではなく、幸福な人の活動を完全なものとするような快楽が人間の快楽なのです。

 優れた現実活動とは卓越性(徳)ですが、それは一時的なものでなく、その善さ(徳)が身についている人の現実活動のことです。たまたまなされた気まぐれな善は、本当の徳としての善ではありません。

 それゆえ幸福とはなんであるかを考えるとき、人間に特有の活動に注目せざるをえなくなります。人間だけにあるものが魂の「ロゴス(ことわり)を持つ部分」を働かせた生です。この部分が一般に「理性」と呼ばれる働きで、それゆえ徳に基づいた生活がよき生であり、幸福ということになります。

 さらに最高の幸福ということを言うなら、それは最高のよさ(徳)に基づいた活動であり、我々のうちの最も優れた部分の活動でなければなりません。それはアリストテレスによればヌースに基づいた活動で、それこそが完全な幸福であり、それが観想(テオーリア)という活動だと言われます。

 ソクラテスは一般に主知主義者と言われますがそれは「よく知ることとよく生きること」は同じだという意味で、別に知それ自体に取りつかれた人ではありませんでした。つまりはソクラテスが求めたものも幸福であったわけです。その結果、彼は毒杯を仰いで死ぬことになりましたから、彼は命がけで幸福(よく生きること)を求めたわけです。

 では現代の幸福主義の哲学と言われる功利主義は、幸福をどうとらえるのか。次はこれを考えてみます。

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