宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

介護のトリビアリズムの意味

 今日は疲れていたせいもあり、仕事の中での手順や、利用者さんの忘れ物対応ほか諸々のこまごましたことに、対応しきれませんでした。それって、トリビアルなことじゃ、と一瞬思いました。でも、生活はトリビアルなことで成り立っています。介護という仕事は、それに付き合うことだと感じます。ではそのトリビアルなことにつき合うのは、なぜなのでしょうか。

 トリビアルなものの評価のむずがしさは、究極のところ、当人の趣味や拘りにつながるところにあります。つまり裁定不可能な領域です。トマス・クーンが、主観的という言葉は、客観的と対置されると同時に、裁定可能と対置される言葉だと言っていました。つまり裁定不可能な領域が主観的世界であり、それは趣味の領域である、と。主観的という言葉に関しては、現象学の視点からもう少し考える必要があります。つまり間主観性の問題ですが、今はこれだけにしておきます。

 サービスという考え方に立てば、利用者さんや家族の日常のトリビアルなことに、相手の都合に合わせて、対応する必要が出てきます。しかし介護保険対象の場合、8割から9割は税金です。いわゆる市場経済の中の単純なサービスと分けて考える必要があります。では、措置の時代にはどうだったのでしょうか。生活のトリビアルなものに当然対処していたと思いますが、対処が上から目線だったのでしょうか。必ずしもそうばかりではない気がします。

 生活を占めるものはほとんどトリビアルなものだと思いますが、なぜそれを大切にするのかといえば、それがその人の生活の居心地を決めるからなのではないでしょうか。トリビアルなものが、その人らしさを守る小道具なのだと考えれば、出来るだけトリビアルなものに対処していく必要があります。ただこれは本当に難しいなあと思います。サービスのプロが目指している世界であり、介護という仕事は一体何なのだろうと考えてしまいます。

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