宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

シャドウ・ワーク

 母を眼科に送ってから、用事を済ませ戻っても、まだ診療は終わっていませんでした。久しぶりに水戸のメインストリートを散歩し、気になっていたカフェで一息ついて戻ってからも、大分時間がかかりました。「花きゃべつ」でお昼を食べて、花木センターに寄り道して帰ってきました。母が欲しかった真っ白な菊は、母にとっては値段が高いと感じたようで、他の菊やシクラメンを買いました。どこかでもらうからいいというので、じゃあサツマイモとバーターしたらというやり取りをして、こういう感覚は結構まだ残っているなあ、と思いました。

 さてシャドウ・ワークとは、イヴァン・イリイチが作った言葉ですが、イリイチは、産業社会における労働の形態が「支払われる労働」と「支払われない労働」の二つになっているということを指摘します。後者の支払われない労働を、彼はシャドウ・ワークと名づけましたが、この労働は「賃金が支払われていくための条件」になっていることがポイントです。内容的には、女性が家で行う大部分の家事や通勤に費やされる骨折りなどのことです。イリイチは、家庭が生産と消費の場であることから(趣味的生産はあるにしろ)もっぱら消費の場に変わったことと、シャドウワークの登場は軌を一にする、と捉えています。そしてそれは賃労働の意味が変わったことでもあります。 

 イリイチは、「シャドウ・ワーク」(『シャドウ・ワークーー生活のあり方を問うーー』(岩波現代選書、1982年)の中で、賃労働は古代ギリシアやローマ時代、中世時代すべてを通じてみじめさの代名詞であったと言います。「賃労働によって生活する必要があるということは、落伍したり追い出されたりした印であった」(198頁)、それが変わるのは「十七世紀と十九世紀のあいだで」、「賃金は、貧窮の証明ではなくて、代わりに有用なことの証しと認められるようになり」、「自立・自存の生活を補充するものであるよりも」、「一定数の人口にとってのくらしの本来の源泉とみなされるように」(200-201頁)なったというのです。かつて貧困は経済状態としてではなく身分状態として、能力ある者に対立するものでしたが、今や金持ちに対立するものになったというのです。現代社会では、貧困はお金の問題と捉えられるので、能力を持つ者・権力を持つ者と対立するという図式は、ピンときません。これを理解するには、イリイチの言っている「人間生活の自立・自存」がどういうことを言っているかを把握する必要があります。

 商品経済が主流になる以前の生産の主体は、農村における生産=消費の場としての家であったと言われます。「食料の加工と保存、ロウソクづくり、石けんづくり、糸紡ぎ、機織、靴づくり、羽ぶとんづくり、膝かけづくり、小動物の飼育や果樹園の手入れ、これらすべては家屋敷おいて」なされ、これらの自家製の生産物を売りに出せば貨幣収入になり、世帯というのは圧倒的に自己充足的だったと言われています。そしてこれらの売買の基礎には、現物交換(バーター)があったわけで、女性は男性に劣らず、家計の自己充足性を作り出していました。1810年の北アメリカでは、毛織物25ヤードのうち24ヤードまでが家で作られていましたが、これは1830年までに変化しました。商業的農場経営が生存維持的農業にとって代わり始めました。

 日本の1950年代の生業は、農業従事者が50%以上を占めています。農家育ちの母の話を聞いていても、家でいろいろなものを作っていたことが分かります。母の原体験は商人の家に嫁いでからも身体化されていて、梅干しを作ったり、梅酒を作ったりは当たり前のようでした。私は、梅酒は自分で作るより買ったほうが安くておいしい、とつい思うのですが、こういう事態こそイリイチの言うヴァナキュラーなものの喪失なのでしょう。ヴァナキュラーとは家で育て、家で紡いだ、自家産、自家製のものすべてに関して使用され、交換形式によって入手したものと対立します。「産業社会が破壊している価値はまさしくその社会が大事に育てている価値にほかならない」と言い切れる感性の喪失。

 女性自身がどこかモヤモヤを抱えている、家でする諸々の仕事に対する評価の仕方の混乱。これが、シャドウ・ワークの概念を使うと分かり易くなります。家でする仕事が自立・自存の経済のために基本的に重要な貢献をしていた在り方から、市場経済社会のシステムの中で、稼ぐことは市場と関わることという枠組みができたことで、家でする仕事は稼ぐための「条件」に後退してしまいました。市場経済社会というシステムの中で、家事や自給的生産活動は制度の枠外に置かれ、女性の状態は職務解任状態になったわけです。しかし専業主婦であることに丁寧に向き合いながら暮らすとき、なんとなく、社会の規範と自らが一生懸命やっていることとの評価のずれに戸惑います。それは女性自身の中にも内在化されている価値観であり、どこかで自分のやっていることと稼げていない状態との折り合いをつけられずにいる。それは家事を単純に金銭評価することで解決する問題ではない。この辺りのことは、これからも考えていく必要があると思っています。

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